こぐれ日録 KOGURE Diary 2009.3/16〜3/22


こぐれ日録632 2009年 3/16〜3/22

3/16(月)

風邪なのか花粉症なのか。
夜、山科における大学関係(まちづくり、地域公共人材)の集まりから帰って、そのあとに読んだ企業メセナ協議会の緊急提言のこんな文章に反応している。

「そもそも、未曾有の経済危機、社会危機をもたらした最大の要因は、人類と地球のあるべき姿を経済価値だけで評価し、架空に近い経済投資競争を繰り広げてきたことにあるでしょう。これまでの経済の枠組みを変革することなく、ふたたび経済再建策のみを中心に社会再生をめざそうとすることは、戦略なき愚策の反復に過ぎません。
注目すべきは、これまで成功した内外の創造都市の多くが、経済の疲弊で衰退したからこそ文化中心の地域創造へと転換し、文化への集中投資によって、経済再建を含む都市再生を果たしたという点です。人類の文化的英知を傾注することこそ、日本の社会再生には不可欠であり、現下の最優先戦略は文化への集中投資です。」

なんとか、京都市とか大阪市とか、行政の末端まで届きますように!もちろん、NPOの人たちとかには届きすぎている、というか、むかしからこういっていたのよ、too late!っていうことでしょうが。

too late!といえば、職場だってそうだようなあ。名刺を渡すのがヤダ。
まだ、「地域」だったらよかったのにねえ。

真木惣介『自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学』岩波現代文庫(2008年、大澤真幸解説)、1993年に岩波書店から刊行。
動物行動学のティンバーゲンとか古いところではローレンツとか若いときよく読んでいたし、ドーキンスの「利己的な遺伝子」の話は面白すぎる話題なのでちょくちょく聞きかじっていた。そんなこともあり、ものすごく面白かったし、あれこれ想像を飛ばすことが出来た名著である。でも、けっこう、むずかしい。

たとえば、「サライ」というのが、ペルシャ語で、館、宮殿、オアシス、故郷という意味であるということをぼんやりでも知っていると、以下の文章は何とか読めるのだが、一瞬、雑誌名?って思ってしまい、すらりとは読み込めなくなったりした。その箇所を引用しておこうか:p139-140

《 生成子が自分のサライである個体だけでなく、他の個体を含めた世界の全体に働きかけあっている、という認識が、「延長された表現型」という卓抜な発想の理論的核心である。生成子が他の個体に働きかける最もすぐれた方法は働きかけられる他個体が歓びをもって、すなわち能動的な「熱意」をもって、利他行為を行ってくれるように形成することであった。進化の過程で、他個体が「自己」に対して一般化された共感や「愛情」を感じ、歓びをもって保護や献身を行うように作用する力を獲得した生成子は、淘汰上明確に有利となり増殖するだろう。・・・・・・そのように「作用された」他者が、愛のためにかんたんに「生命を捨てて」しまうほどにも利他的であれば、「他者」をサライとする生成子たちは、この極端な自己犠牲に対しては対抗形質を進化させてしまうはずだから、他者の生存に損傷をあたえないような仕方で、「利他的」な行為を他者たちの側に触発することこそが安定的な「戦略」となるはずである。》

(なお、生成子とは、通常遺伝子と訳されるgeneのことだが、遺伝子という言い方は、個体から見た言い方であるということもあって、著者は、「生成子」と使っている。これは理解しやすいが、「テレオノミー」が、テレオドジー(目的論)から来ていて、それよりも中性的な造語(ドーキンスだっけ?)ということだが、ふと、どう日本語では理解したらいいのか、すぐに分からなくなったりする:読み終わったいま・・・目的志向性、ぐらい?YAHOO辞書によると→「目的論説。生物の示す行動・生活史・発生過程・形態などさまざまな現象は、それぞれが特定の役割をもち、目は見るためにある、というように進化の過程でその役割を果たすのに都合のよいように形成されてきたとする考え方。」


3/17(火)

京都駅からバスに乗る。千本通り。壬生寺。ここの壬生大念仏狂言はまだ見たことがないな。4月21日〜29日。もっと北に行くと千本閻魔堂。ここの千本ゑんま堂大狂言は見たことがある。5月1日〜4日。あと、嵯峨大念仏狂言もあるんだよな(今年は、3/15、4/5、4/11、4/12、10/25、11/8)。古い町。昔は京都の中心の商店街だったのだろう。銃刀類を売っているお店に外国人客が入っていったぞ。

千本鞍馬口バス停下車。少し下がって、船岡温泉へ行く道をたどる。もう暗い。最近、遠方が見ずらい。道沿いに、スペースALS-Dの表示がある。右(南)に曲がってすぐにまた右(西)、道沿いを左に数軒。
入るとすぐに靴を脱ぐ。細い階段を上る。鞄をかけたままなので窮屈にあがる。真下に竹之内淳志さんの裸姿がすでに見えている。19:20。受付で2500円を払う。かわいい女の子がいる。どこかで見たぞ!と思う(あとで、由良部さんの娘さんだと分かる。はなのライブに来ていただいたときはとても小さくて私の手ぬぐいをとって、お父さんと同じように巻いていたあの子!)。

全部でも30数名ぐらいしか入ることのないスペース。音楽を奏でる(鈴や石や水、竹などを鳴らし、声を操る)小宮広子さんの隣に座る。竹之内さんは、ゆっくりと回転している。裸が自然体なのが不思議だ。ヨーロッパの民謡?が流れている。指がすこし開いたりする。
遅れてくる人、迷っている人がいて、19:50に始まる。竹ノ内さんが世界中を回っていることなどを話した由良部さんがスイッチを消す役なのだが、私の背後にあり、これを消すと自分が戻れない!といいながら消す(笑いあり。あとで、自分が代わりにすればよかったなと思う)。

1時間少し。竹之内淳志JINEN即興舞踏 kakela-カケラを楽しむ。音が目の前で起きるところに座っていたので、滝のしずくを被りながら、踊りを見ている気分になる。自分も声が出したくなるような踊りと音。小宮さんが足指を使ったり、口で操ったり、多様な音を出している。

いつもの竹之内さん。10年ほど前と変わらない熱さ。でも、はじまりのところで魅せたように、息が深いのが一番違っていたところ。音との相性は前からよく、それが、いささか陶酔過剰という弱点にもなっていたようだが、構成も冷静にあって、再現可能性と意外性(創発性)が7:3ぐらいの按配にある状態だった。
こちらは、咳が出るし、体調は万全ではなかったが、終わって、ビール缶を2つ飲んでから、上念さんと帰った。千本鞍馬口10:08だったか、これに乗ればもう少し早く帰れたのに。

今貂子さんから、「京都府庁旧本館、春の一般公開」のチラシをいただいた。3/23〜4/5。3/25と28,29に催しものがあるようだ。担当は京都府府有資産活用課というところ。いい課の名前だなあ。文化資源活用課というのもあったらいいのにな。

川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』新潮文庫(2006)。2003年刊行。
10編のニシノユキヒコ(西野くんとかユキヒコとかいろいろに呼ばれ、一応違う人だけれど、まあ一緒といえば一緒。光源氏ぽいかも?)をめぐる女(すこし猫)の物語り。猫が出るのは、猫に興味がないこともあって、少しパスかも。でも、妙齢の女性(50〜60ぐらいか)の話「まりも」などは、身近なので、とくに面白かった。そういう意味では、「ぶどう」もね。


3/18(水)

いまが風邪のピーク。大人しく家。
したがって、『中島陸郎を演劇する』という精華小劇場のなんだか物々しいお芝居はパス。
出演者の多さ、それに演出は一人(キタモトマサヤさん)なのは、そうだろうけれど(演出が2名以上あれば、役者はどうしたらいいかわからなくなる)、作が、4名のお名前があがっていて、これって、もう、元気なときでも、かなりの覚悟がいる面々だ。内藤裕敬、深津篤史、樋口美友喜、棚瀬美幸。

かわりに、打てないイチローを見ている。終わってから、韓国の文化を知りたくなって、前から買っていた、古田博司『朝鮮民族を読み解く―北と南に共通するもの』ちくま新書(1995)を読み出す。どうして、この本を買ったのか(かなり主観的な思い入れによる事例が多く、また10数年経過しているので現在とは違うこともあるかと推測される)、いつ買ったのか、まったく覚えていない。アマゾン古本の功罪ではあるが、以下のような要約や知識には反応した。

朝鮮民族の祭祀が儒教式であるということ(これは李氏朝鮮時代に上から取り入れた新風俗だったのだが)について p74-75
《 儒教と仏教のもっとも大きな違い、それは儒教にはあの世がないということである。
《 人間が死後のことを考えるとき、そのとり得る態度には可能な組合せが、おそらく四種類あろうかと思われる。まず死んだら何も残らず、かき消えて無くなるという態度。これは無神論の立場である。第二に、天国とか地獄とか別の場所に行くと考える立場である。キリスト教やイスラム教など多くの宗教がこれに属する。第三に、よその場所に一時行くが、また生まれ変わってこの世に戻ってくるという考え方がある。いわゆる輪廻転生を基本にする仏教やヒンズー教がこれに属するだろうか。第四は、死後もたましいがこの世にそのまま居残るという立場である。これが儒教である。》

また、p93-95には、儒教(朱子学)導入前の高麗末期の葬送について具体的に書かれていて、日本の民俗葬送と比べることが出来て、こちらは上記以上に興味深い。『李朝実録』に書かれているということ。
なんと、はじめは、風葬みたいなのだ。3年間ぐらい、樹上に放置したという。樹上葬、これを「草墳」というらしい。土に埋めると骨が黒く腐るので、霊力が落ち子孫に繁栄をもたらさないと信じられていたそうだ。乾いてあめ色になる骨。おお、日本人の骨フェチ問題に通じる・・・
そして、再度、洗骨して棺桶に入れるという。洗骨葬である。現在も、全羅道西南島嶼部では、入管のとき骨を洗うという。沖縄の洗骨の風習と比べた研究などもあるのだろうか・・・

夜は、あんまり深刻な映画はだめだろうと思って、グランド・ホテル方式という、群像劇、群像映画の語源となった、1932年のアメリカ映画(舞台はベルリンのグランド・ホテルだけど)を見る(第5回のアカデミー作品賞)。小説があって、それが戯曲化されて舞台作品にもなっていたもの。だから、お芝居は、場面転換がなければ、だいたいグランド・ホテル的な固定舞台となるわけで、そこに群像劇を出すには、ホテルや空港など、人が出ては入る場所(準公共的広場)が必要になるというわけだ。

エドモンド・グールディング監督『グランド・ホテル』1932年製作(アメリカ同年公開、DVDに1933年とあるのはどうしてか?)。グレタ・ガルボとジョーン・クロフォードという対照的な女優が対照的な役柄(落ち目のバレリーナ、庶民的なタイピストで夜のお勤めOKよ、の秘書)。ジョン・バリモアと兄のライオネル・バリモアも対照的な役柄(結末も対照的になっている)。
飽きさせず、実にうまいな、という展開。深みはないけど。あんなにスターって当時は、腫れ物に触るぐらいちやほやされていたんだろうか。その分、落ち目になるとその落差が怖いわけだ。


3/19(木)

少しずつ、風邪が治りつつある。腰が痛いのはずっとソファーにいるからかも、と思って、スクワット100回をする。脚が痛い。体がなまっている。今日は、近くの散歩だけにしよう(劇団そとばこまち『妄想探偵 四谷川啓介』には、卒業生の南園さんが出ているんだけど)。このしたやみ「砂の女」(西陣ファクトリーGardenもきになるが。

散歩といっても、岩清水八幡宮まで上ると息が上がった。平成の正遷座奉祝、御本殿・御神宝ほか未公開文化財特別拝観へ。500円。右側から、八幡造御本殿内へと入る。江戸初期の建築物。欄干がとても綺麗に彩色されていて、見ほれるばかり。左甚五郎作といわれる「目貫きの猿」は、彩色していない。そこまで予算がでなかったということ。でも、下からでは、これを見つけるのはちょっと難しかった。
御太刀は、三柱の神様がいらっしゃるので、3本あり、3/14〜4/12の間に1本ずつ公開される。いまは、東御前に捧げられているたままきのおんたちが展示されている(なかなかに綺麗)。綺麗といえば、御幡(ごばん)も、小さな石が飾りについて、素敵な旗。これは、仏・菩薩や法要の場を荘厳供養する旗だそうで、神仏混淆な感じ。

帰って、野球を見る。
夜は、青山真治監督・脚本・音楽『Helpless』1996年、80分。
音楽がいいな(山田功)と思いつつ見ていて、一度は見たなと思い出す。
でも、はじめてみるようなところも多かった。いつどこで見たのだろう。芳江も見たっていっていた。でも、どこでどう見たかも忘れている。
寡黙な映画だ。ひりひりとした詩。


3/20(金)

栗東駅へ。さきら小ホール。子どもづれ、年配の人たちも。
16:01〜17:00ごろまで。そのあと、全員が出てきてトーク。40分ほど。50歳代以上のコンテンポラリーダンスの可能性は痛いほど。

さきらコンテンポラリーダンスワークショップパフォーマンス『七人の大人未満』。
ビギナーズラックの面もあるが、50歳代の男女など、見ごたえあり。17歳の女子2人との開きもまた市民コミュニティダンスの醍醐味だ。
文楽の語りにとくに反応。ジャンプし続ける女性もけな気。

つづけて、先輩格の
さきらダンス道場パフォーマンス『Don’t do that,Do!!』4名、ちょっと、きつく踊っている。

帰って、青山真治監督・脚本・音楽『シェイディー・グローヴ 恋は突然に』1999年、99分。
この監督は、音楽もするのかな。たしかに、音が豊富で楽しい。
曜日で区切る。基本は寡黙なストーリーと会話。饒舌なのが映像の移動・色彩・美術デザインと音楽。
でたらめにかけた電話番号というのが、ちょっと、どうかなとは思うが、小さな森(grove)は影の世界で、重要な役を演じる警備員の初老の男が、哲学的なことを論じる変なところが好き。


3/21(土)

めくるめく紙芝居。前回もお休みしていたので、久しぶり感あり。
それと、涙は出るが、風邪の身体のだるさはないので、どうも、うきうきする気持ちもあって。
しかも、あの太陽クラブの連中である。浮き立つなあ。
新3回生ゼミのメンバーが3名も来てくれたのも嬉しい。
で、はしゃぎすぎて、妖怪を描いていて、絵の具を床につけてしまったみたい(みんなで拭いてもらう。いやあ、すみません)。
きょうは、山科青少年活動センタースポーツ室。すでに共催なので、3時間連続で使えるのだったということ。
でも、これからはより、ヤマセイの活動と一緒にやっていこうということになる。
11/1予定のヤマセイまつりにメック出ることをほぼ決定(もちろん、予定)。
そのまえに、春の終わりに公演する予定で、今日は、その公演のため、がっつり、お絵描き(拡大、変容)。ドライヤーで乾かしていたら、ブレーカーが落ちる。そのほか、あれこれ、いつものよう。まあ、それなりに描いたのだが、林加奈さん、それでも、これだけか・・・と言っていた。丸一日、描き続けるぐらいしなくちゃ、定型の大きさの紙芝居の小さな絵を、大きな巻紙(これも紙芝居といっているのだが)にするのは、時間がかかるものだ。再演のためのメディア換えは新作と同じぐらいのエネルギーもいるし、意味もあるかも知れないが。

12時から15時がワークショップで、そのあと関係者で打ち合わせ。ヤマセイスタッフとも調整。
18時に終わり、shin-biへ。いやあ、子どもたちが大勢いて、いい感じ。途中、ダンスパフォーマンスで、コップに緑色の怪しい液体を入れ、何かと角砂糖を入れたものへ、サイダー水を入れる儀式めいたところになると、子どもたち、いっせいに椅子の上にのって、もう、夢中で、うっとりとしている。その顔を見るのもうれいい。

3/6から3/29まで、shin-biのギャラリーの方で、かなもりゆうこ+NAYA BOOKS『ヴァリアント』写真と文の本、出版記念の展覧会&イベントが行われていて、今日は、その「イベント」の日(shin-biスタジオ:映画帰りの人たちが不思議そうに覗くすがたもまたよし:子ども効果もあって)であった。

前半が、さきにコップの秘儀ダンスとして紹介してしまったパフォーマンス『さまざまなときのフラグメント』(構成:かなもりゆうこ 出演:宮北裕美・納谷衣美)である。影もまた共演者である。
ゆっくりとした、必要以上に高まらない世界。逆に、必要以上に秘密にしたり、厳かにもったいぶったりもしない空間。
声明の散華みたいなものがあるのもまたおかし。しかも、主役はいないで、ふたりとも散華なのね。赤い破片(フラグメント)と白い欠片(フラグメント)。本から抜け出してそこに舞い降りる2人。

ダンスは、自分(自我とか自意識)を少し溶解させる。ゾル、ゲルのゾル状態。見るほうも、少しずつゾル化する。ゾル化すると、積極的に動き出す。そとをのぞきたくなる。でも、身体は空っぽになる危険も生じる。出たり入ったり出たり。留守番をする抜け殻。
パチンという納谷さんの音が眠る(動かなくなる=死ぬ?)宮北さんをすぐには起こさない。その間がいい。そして、踊り手であることを忘れたかのような、無邪気で陽気な踊りの宮北。これは、ちょっと事件ぽかった。

これは、ギャラリーでも映像としてみることが出来るし(もちろん、本番のパフォーマンスでは、フラグメント間のつながりに一回性の間の微妙な息遣いのようなものがあり、映像とまったく同じではないのは当たり前だが)、なんと、西日本出版社発売、NAYA BOOKS発行の、かなもりゆうこ『ヴァリアント』(2009.3.6、英訳付というのも美術作家としてはとても必要なことである、セス・ヤーデン〜ひょっとして、会場にいた子連れの背の高い男性?〜によるもの)の本の最後にDVDで見ることが出来るのだった。この本文にも今回の映像の静止画があり、言葉がある。解説でもなく、でも、言葉で何か広がる感じがする。ダンスと言葉ということでも気になる本だ。

チャーイを飲んで休憩。あの、緑色の怪しいコップも飲みたかった。
そのあとは、バリやカンボジア(少しのようだったかな?)の映像と現地の音。
バリ・ガムランって最近あんまり聞いていなかったし、山城組を思い出す、ケチャがとても懐かしい。歌が日本の民謡のメロディにちょいと似ていた。

そして、かなもりゆうこ作品、宮北裕美・納谷衣美のダンスではいつも必須の音楽、ORGANさんの音を感じる。こうして、ライブという気持ちで音中心に聞くという機会はありがたい。ダンスの公演のときの音はどうしてもダンスとダンスの隙間にあって、ダンスと一体となってその鑑賞の喜びの対象となり、たまにではあるが、ダンスがちょっと盛り下がったときに意識したりするという不幸なこともあるので。

読み終わったのは、_樹のぶ子『彩月』季節の短編、12本。文春文庫(2002)。ただし、初出は、1993〜96。季語の表題がつく。「雛送り」がはじめで、やっぱり中高年の性愛はすごいなあと他も読むが、徐々に、トーンダウンする。短編としては、一文が長く(川上弘美と比べるからかも知れないが)、出始めでぐいと読者をつかむのがあんまりうまくない作家のような気がしてくる。でも、リストラな話の「寒茜」、アウツハイマーになってしまった妻をめぐる「月日貝」などは、沁みる。


3/22(日)

変な、しかも鮮やかな夢を見た。
昨日のことをこの日録に書く。
大学へ。久しぶりに池田先生とおしゃべりしながら弁当を食す。こんなに忙しいとは思わなかったと先生。じつは、わたしは暇なんですよ、というと驚いていた。まあ、よくやっても、それを相手様が評価する能力がないことが多いので、その相手様のレベルに応じてすると暇になるのだ、という趣旨を話したが、ご理解できたかどうかは分からない。まあ、50歳になると誰でも気づくことだろうな。

25分ぐらい、高校生とその親とアルバイトの学生に話す。唯一つ確実にある正答から、自由に自分で応えるということへ。つまり、アンサーからリスポンスへ。そして、もう一つ、正答のある質問ではなく、応えを促す質問を作ること。この、2つが、大学ですることなのだというガイダンスをする。

あわてて、三ノ宮へ。14:20に終わって、ポートターミナル駅に16:00に到着。意外と早く着いた(新快速の接続がよかったせい)。
「かってに まど・みちお展」〜まどさんの詩をカタチにしよう〜の最終日。神戸の海が灰色で蠢いている。雨と嵐の海を見るのが好きだ。CAP Q2。いつものところでは、音楽集団「俄」さんのタブラなどのセットが置かれているが、まだ、演奏は始まっていない。向かえにある二つの部屋が展示室になっている。100名ほどがまどみちおさんの詩に絵画やイラストや立体作品、インスタレーション、ぬいぐるみ、はんこなどなど、思い思いのものを展示している。

壮観な楽しさ。そうそう、作曲もあって、その音が声が流れている。企画者のマスダマキコさんによると、一番多かったまどみちおさんの詩は、しろやぎさんがお手紙をたべた詩でも、ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね、の詩でもなく、くまさんの詩だったそうだ。こういう、公募型の展覧会は思わぬことがいっぱいあって、しかも、いつものメンバー以外のニューカマーが応募し、その関係者が見に来てくれるので、とても広がりのある、面白い企画だと思う。音楽と文学と美術と手芸・・・

NHKとか、取材すればよかったのね、と誰かが話していたな。
ライブは、姫路のサックス奏者の方が中心で、俄という集団名。このまえ、竹之内さんのライブで久しぶりにあった若者も途中から演奏に参加していた。戦争の詩による演奏。まどみちおの優しさが戦争へも届くということを確認しながら、激しい即興を聞いていた。外の風車が、演奏中、とくに激しく回っていた。


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