こぐれ日録 KOGURE Diary 2009.3/2〜3/8


こぐれ日録630 2009年 3/2〜3/8

3/2(月)

すこしずつ行政法を思い出そうとしている。
でも、すぐに脱線。たとえば、特許と許可などの行政行為の分類のところにくると、NPO法人の認証とか指定管理者制度の指定とか、なかなか分類できない処分について考えてしまう。お風呂屋さんとか、古典的な例示は面白くないし。

京都市の青少年活動センターの使用料の一部有料化という動きを知って、門川京都市政について少しだけ興味を持つ。去年、そういえば、新しい市長になったのだった。この方は、一度だけテレビで議会答弁を見ただけだけど、ずいぶん活舌の回らない人だなあ、自信なさげだなあと思ったりしたぐらいで、京都府とは違いまったく京都市とはお付き合いがないので(昨秋の楽陶祭のとき、駆け足で視察されていたのを垣間見ただけだった・・・もちろんメックを鑑賞されたり市長がされるわけもなく)、よく知らない。

ただ、オリックス不動産に公共の公園で水族館を運営させよう(これは講学上の特許の例になるかもね)とか、新自由主義政治を推進する方のようだ。市民マラソンなどのイベントもお好きだそうだし、だいたい、文化環境形成よりも集客イベント発信を重視する方のようだ。

読んだ本、小林恭二『新釈四谷怪談』集英社新書、2008年。これを読んだ後、廣末保『四谷怪談』を読んだほうが、筋書きなどが頭に入るので、スムーズかも知れなかった。お岩さんが祟り神であるとか、近代化個人への予兆を江戸後期のこの時代に感じるとか、独特の解釈もあったりはするが。於岩稲荷信仰のことも面白かった。

いずれにせよ、四世鶴屋南北の晩年(71歳)の傑作、歌舞伎『東海道四谷怪談』を通しでますます観たくなった。映画や小説では、断片的だったり改変されていたりするし。

夜は、ニコラ・フィリベール監督『僕たちの舞台』1998年、106分を観る。少し、ディスカッションのシーンなどでうとうとするが、お芝居を即興とまちでの体験によって、若い演劇学校の学生たちが協働で作ろうとするドキュメントという趣向がじつに興味深かった。
コウノトリの小道具づくりや影絵、そして、前もそうだったが、小さなアコーディオンの効果的な活用があり、コーラスも素朴に心に沁みる。


3/3(火)

今日もずっと家。
東京では雪が舞っている。東京というところは、いつも春の雪だ。
ものすごく久しぶりに坊主にしてもらう。ずっと、岡本全勝君の頭みたいだったので、すっきり。
政治学というのは、どれぐらいの距離で政治を分析すればいいのか、その遠近感がまだ分からない。
Docomomoとか京都水族館とか。
これは、行政学でも同じだろう。そういう意味では行政法学というのは、ルールの枠組みがあるので、逆に距離感が自ずからでるのでちょうどいい。

杉井ギサブロー監督『アニメーション 紫式部源氏物語』1987年、1987年を見る(同じ朝日新聞で同年発行の本も購入)。脚本(シナリオ)が筒井ともみ。会話が少なく、静止画(キャラクター原案が林静一)と分厚い音楽(細野晴臣)。はじめは、いいなと観始めたのだが、いかんせん、展開がそんなにないこともあって、退屈になる。どうしても興味は生霊の御息所なのだが、それよりも、この映画のテーマは、咲くものはすべて舞い散ること。舞い散るという感じかな。桜、もみじ、雪、女。


3/4(水)

13時から一つ会議があるので、大学へ。
京都に水族館できるの、知っていました?って周りの先生に聞いても、知らない、とか、関係ないという感じで反応が薄い。でも、オリックス不動産ですよ、というと少し反応が出る。かんぽの宿は鳩山さんのいうとおりだけれど、東京中央郵便局は遅すぎるのでは?という意見が返ってくる。それに、東京中央郵便局舎って価値あるの?とも。まあ、私もつけ刃なので、ちょっと、しどろもどろ。東京のことは遠いのでちょっと分からない。でも、作者は新風館のもとの建物の吉田鉄郎っていう人ですよ、というと、新風館?って、ある先生に聞かれたのには驚いた。新風館ってあんまりご存知ないのか・・・

ゆっくりしてから、大阪駅へ。もっと早く出て、大阪中央郵便局を見ればよかったな。
精華小劇場、尼崎ロマンポルノ『鉄鋼すべからく』作・演出:橋本匡。100分。4面舞台なのだが、ステージもかなり分割されていて、派手なものだった。はじまる前の音楽がいいなあと聴いていた。

すべからく鉄鋼すべし。謎な題名ですね。


3/5(木)

見田宗介の『宮澤賢治』に感じ入ったこともあって、2冊彼の本を読んだ。

見田宗介『まなざしの地獄―尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社、2008年)初出『展望』1973年5月号。「新しい望郷の歌」(1965.11)併録。解説:大澤真幸。N.N.=永山則夫。
P73
《 われわれはこの社会の中に涯(はて)もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとによって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。》

見田宗介『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来―』岩波新書、1996年。
P167より
《・・・われわれは、「情報化社会」というシステムと思想が正当であり解放である限りの根拠を洗い出してゆく作業をとおして、「情報」というコンセプトの可能性の核にありながらこの観念自体を踏み抜いてしまう原的な領野のごときものとして、マテリアルな消費に依存することのない知と感受性と魂の深度のごとき空間の広がりを見出してきた。
 情報化と消費化の社会といわれるわれわれの脱産業化的な世界の、このような積極的な可能性の核を追求してゆけば、それはわれわれに、どのような肯定的な生のかたちに向かう自由を開示してみせうだろうか。》

P182-183より
《・・それぞれにちがった仕方で無限に豊穣な共同性と孤独、交歓と自立の形式を生きつくすことを可能になるのは、社会全体の形式としては、むしろシンプルに最小限化された、どのような価値前提からも自由な、(あるいは〈自由〉という価値前提だけをその基底としておく、)ルールのシステムであるということ。社会の形式の簡素化が、逆に個人や集団の(無限に多様なユートピアたちの!)生の実質の豊饒化を保証するという、〈自由な社会〉の構想の重層化された論理》は、この本の次に書かれる予定とある。読まなくちゃ、でも、この次は自分で考えるべきなのかも知れない、稚拙なものであってとしても・・・


3/6(金)

雨から曇り。写真日和ではないが、久しぶりにデジカメをもって外へ。
今日は、写真で見てね。http://picasaweb.google.co.jp/kogurenob/0936#

体育館だけ有料化されるという崇仁(すうじん)屋内体育施設の場所を確かめに。
京阪七条から5分、JR京都駅まで10分の至近距離。
崇仁小学校、京都市崇仁学習施設(崇仁まなびセンター)。まなびセンターの図書室と学習室、ワーキングルーム(洗い場があって紙芝居づくりに最適)、音楽室、多目的ホール、大学習室を見せていただく。京都市教育委員会指導部学習指導課の方(もともと中学校の先生)がおっしゃるのには、いままでは地域の子どもたちの学びの場になっていたが、4月からはNPOがここも運営を委託され、より広い利用を進めるのだということ。

崇仁コミュニティセンター本体のあるうるおい館の方は、1階が老人デイサービスセンターになっていて、ちょっと入りずらかったので、外観のみ。2階、3階には、多目的ホールや音楽室がある。

この主任専門主事の方は1年間のお勤めだったそうで、なかなか、駐車場がないこともあるけれど、体育館などの利用はそんなにいままでは多くなかったそうで、体育館は有料化されるけれど、この2年間はそれ以外は無料であり、どしどし利用して欲しいとおっしゃっていた。
地域通貨的にも興味のある柳原銀行記念資料館もしまっていたが、明治40年ごろの木造のかわいい銀行。

大阪中央郵便局へ。中も広々。5月には移るとポスターあり。
大阪港駅。Pia NPO。ジャンクションビル―14人のアーティストによる“6階建てのオフィスビルPia NPO”をまるごと楽しむ現代美術展―。案内の男性もいい感じ。3階の大阪アーツアポリアでは中西さんらが明日の総会の打ち合わせ中。屋上などもはじめて上って、なかなか面白いビルだ。入っているところがNPOならでは。

伊丹AI・HALL。マレビトの会『声紋都市―父への手紙』作・演出:松田正隆。90分。自分探しの旅。長崎の松田さんの実家のお父さんの映像など。無脳児の写真。


3/7(土)

一般財団法人地域公共人材開発機構の評議員会に出るために、はじめて、龍谷大学大宮学舎へ。
いやあ、明治12年、1879年の木造建築。偽洋風。群として保存されているし、矍鑠とした重要文化財っていうところだなあ。お香の薫りのする本館というのも乙なもの。プラットフォームを模したという渡り廊下もいいね。

読み終わった本。
森本景一『家紋を探る―遊び心と和のデザイン』平凡社新書、2009年。
高樹のぶ子『透光の樹』文春文庫、2002年。1999年に文芸春秋刊。アラフォーの恋かな。濃厚な感じ。鶴来はワタリウム美術館の関係で行ったことがあるので、懐かしい。

京阪七条駅そばで、署名をした。民間保育所の補助金を京都市が5億円削減することと、学童クラブの利用料値上げの件。若い保育士さんたちだ。青少年活動センターも有料化なんですよ、と彼女たちに言っておく。


3/8(日)

後期入試のため、大学へ。研究室に着くと、織田先生が、山科でのうちの大学のまちづくりについての物語り本(ノンフィクション)を書かれていて、そこに私もちょっと出るので、添削してくださいと言う。小暮宣雄はどうのこうのと書かれている。変わった文体だ。

お昼休み、河野先生と西山先生と建築の話をする。高松伸のキリンプラザ大阪(もうないのよね?)の提灯のことなど、これも、物語り、あるいは、建築のフィクションに関することだ。気がつくと、今度の大学紀要に河野先生が建築の肉としてのフィクションについて書かれていた。西山先生はアフォーダンス理論も踏まえつつ、取っ手のデザインが戸の開閉行動にどのように関連しているかを研究されている。「戸に与えられているメッセージ性」というフレーズに反応した。

入試業務の間に、交流がある。以下、もう一つのブログに書いたお二人の論稿についての紹介を引用http://kogurearts.exblog.jp/11051597/:
・・・・
京都橘大学研究紀要第35号が出ています。
学生のみなさんには学術振興課にいえばもらえるはずです。

いま、二つの論稿を読みました。じつに勉強になったし、それ自身、読み物として面白かったです。
まず、河野良平先生の《前川國男の「京都会館」における設計手法について》
1960年竣工の京都会館。翌年の東京文化会館の方がお世話になった回数が多いですが、数年前までは、卒業式がここで行われていました。とりわけ、中庭がいいですよね。
河野氏の論稿で面白かったのは、計画案(そのまえにコンペ案あり)から実施案にかけて、音楽ホールから多目的ホールにすることや800席を1300席にすることなどの変化とともに、形状の成熟プロセスが見られるという指摘です。
p159
《・・・4章でみた「京都会館」第1案の模型写真は前川の言うところの「やせた」建築だったと思われる。それが、第2案から実施案に至る過程で肉がつきフィクションを纏って「建築」へと昇華した。人を招き入れようとする大きく湾曲した庇や大きくなったピロティによって「京都会館」は人々に受け入れられ、親しみやすい施設になったことはまず間違いない。》

建築になるために必要となる「フィクション」。当時、前川さんはタイルを貼ることでそれを表現しようとしたと河野氏は言う。建築の肉となりうるフィクションは、物語りに通じるように思える。前川さんの言葉にも、骨董家が壺を集めるのは、「お前の大事にしているものをお前に代わっておれが預かってやろうというような意味(小林秀雄が言っていると前川)」があるのだけれど、そういう意味をフィクショナルに付け加える壺という存在そのものが物語性を持ちうるものなのだ、となんとなく感じるのですね。

もうひとつ、同じく同じ学科の西山紀子先生の《戸の開閉行動と取っ手のデザインとの関連性について》。あまりに身近な戸、扉。うちの大学の図書館や清和館、清優館、清香館の出入口とそれについての学生の発語が研究調査につかわれていて、面白いし、そのベースにアフォーダンス理論があるという部分に、なんだか、私とつながっていて興味ぶかい。「戸に与えられているメッセージ性」とアフォーダンスとの関係、そして、インテリアのフィクションあるいは物語りということと何らかの関係があるのではないか・・・また、西山先生とアフォーダンスについて、そして、河野先生も交えて、建築インテリアにおけるフィクション性をめぐって、あれこれ、お話ししようと思う。
・・・・・
夜、あの『おくりびと』の監督、滝田洋二郎の『シャ乱Qの演歌の花道』(1997年、92分)。前に見た同監督『陰陽師』(2001)よりはずいぶん面白い。適当な感じのコメディだけれど、つんくが大阪の漫才師ぽい顔で勢いがある。ただ、これを買ったのは、脚本(シナリオ)の書き方の関係で、斉藤ひろしさんの本を読んだからで、そこにあったオリジナルのプロットと実際に「シャ乱Q」が入って変更された脚本を比較すると、いかに、シナリオライターというのはプロデューサーや出演者に対して柔軟に対応しなくちゃいけないかがよく分かる。

川上弘美、高樹のぶ子と女性作家を当たってみたので、若い人に人気(?)の江國香織も読もうと思い(絵本の解説本ぐらいしかちゃんと読んだことがなかったので)、骨だったら面白いかなと思い『流しのしたの骨』(新潮文庫、1999)を読んでみた。残念ながら葬送も妖怪・幽霊も関係ない家族で贈り物をしたりする淡々としたお話だった。


KOGURE Diary/こぐれ日録》の扉へ戻る