|
こぐれ日録 KOGURE Diary 2010.8/9〜8/15
こぐれ日録705 2010年 8/9〜8/15
8/9(月)
完全夏休みなり。
高校野球はつい見てしまう。大阪を応援するとか関係なく。プロ野球など中日以外はまったく面白くないのだが。そういえば、最近のJリーグはガンバでなくても面白くてつい見る。何が違うのかな。雨でシート。
高校野球って、都道府県の代表ということで自分的に面白いのかも知れない。だから、県名だけではなく、都市の名がついている学校が好きだ。できれば公立高校がいいけれど、贅沢はいえない。名字も面白い。長崎日大にも島袋君という沖縄ぽい名前の子がいたり。あと、名前を眺めるのも一興。「一夢」君とかいたりして、変なの。
政治学概論Uに使えるかどうか、微妙だなあと思いつつ、『大いなる完』『大いなる完2』を観る。本宮ひろ志原作(講談社モーニング)、高橋伴明監督。どちらも1998年、各82分。『大いなる完2』のほうだったら、選挙運動という部分中心に政治学の学習にあるかも。どぶ板(この場合はあぜ道)選挙、グラスルーツ政治の日本的実態。ただ、角栄の晩年だけが突然出てくるところや、日本の自然はきれいねとトンネル現場の過酷な様子のあとに差し込まれる映像などにいささか、テレビ的安易さが目に付く(もちろん映画作品としてよりも授業教材としてのチェックのほうが大事なのだが)。
田中角栄をモデルにした鉄馬完を的場浩司。小作と地主の関係がドラマの中心でこれはよく史実との関係はわからない(哀川翔と南野陽子が兄と妹)。でも、けっこう、田中角栄の史実を踏まえていて、戦後の話が戦前になったり、モデルの女性、たとえば、佐藤昭子がお清(大塚寧々)になったりする。それ以外も宇崎竜童や大和武士が演じている役柄もモデルがあるのだろう、きっと。
8/10(火)
大学に行く用事がないわけでもないのだが、最近はインターネットづかいで何とかできるし、ぼんやりしているうちに日が暮れる。
こんなに、すがすがしいながら、寂寥感を伴う少年の映画だとは思わなかった。
展開が見えない。いや、見ないようにして、終わることを恐れてみている自分がいた。
アルベール・ラモリス監督(脚本も彼)『赤い風船』(1956年、35分)。50年後に、台湾のホーシャオシェン監督によって新しい赤い風船が撮られたことが、おまけについている「お父さんは『赤い風船』だった」(51分)に出ている。この「お父さん」は、アルベールの子供、パスカル・ラモリスで、パスカルの妹、サビーヌも青い風船を持って少しだけ、パスカルと交わる。とても個人的な映画でしかも普遍的なテーマという不思議さ。
パスカルのタマシイのように、赤い風船が見えた。そう見えてしまうとその結末はそうなる。
子供が死に近い存在であるということとも関わるが、やはり、アニムス・アニマとしての赤い風船の霊気がそう思わせるのかも知れない。無理解なおばあさん?教師、道行く人たち。
異常なものをもつパスカルにおそいかかる、子供たちの攻勢。
どんな比ゆだって可能な寡黙な作品である。逃げることが楽しいのだということだってできる。空想力の浮力だよともいえる。でも、ぼくにはどうしても、浮遊するタマシイの鎮魂歌にしか聴こえなかった。
ようやく、エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1941年原著、1951年初版、1965年新版)を読み終える。
「第7章自由とデモクラシー」の「2.自由と自発性」(p282〜)で、いままでのペシミズムに対する一つの前向きな言葉(ヒントではあるけれど)に出会える。これは、いまもなお何も変わっていない、いや、ますますその実現が遠のいてしまっているテーマでもある。「〜への自由」。積極的自由としての自発性、独自性、そして、連帯。
p283「われわれの分析の結論は、自由は不可避的に循環して、必ずや新しい依存に導くということになるのだろうか。すべて第一次的な絆から自由であることは、個人を非常に孤独な孤立したものとするから、かれは不可避的に新しい束縛に逃避しなければなくなるものだろうか。独立と自由は孤独と恐怖と同じことであろうか。あるいは、個人が独立した自我として存在しながら、しかも孤独ではなく、世界や他人や自然と結びあっているような、積極的な自由の状態があるのだろうか。」
p285「・・・事実、芸術家は自分自身を自発的に表現することのできる個人と定義することができる。」
p286「われわれの大部分は、少なくともある瞬間には、われわれ自身の自発性をみとめることができる。それは同時に純粋な幸福な瞬間である。一つの風景を、新鮮に自発的に知覚するとき、ものを考えているうちにある真理がひらめいてくるとき、型にはならないある感覚的な快楽を感じるとき、また他人にたいして愛情が湧きでるとき、―このような瞬間に、われわれがみな、自発的な活動とはどのようなものであるかを知るであろう。」
8/11(水)
深夜バスで実家に来ている妹と姪っ子に電話。明日、京都でもぶらぶらしようと声かけ。でも、台風の影響が心配。
杉田望『天才大悪党 上下 昭和の大宰相 田中角栄の革命』(だいわ文庫、2006年)。ドキュメンタリーとノンフィクションノベルの違いは、主人公と悪役とがくっきりしていることだろう。杉田さんの大平正芳ノベルもそんな感じだったし、史実や談話、当事者の記憶をもとに再編集するなかで、目線は田中角栄への暖かいシンパシー。それに対する、エリート学閥閨閥をはりめぐらす官僚・大企業幹部や地元田舎の支配層富裕層、CIA的アメリカの策動(ロッキード事件には確かに怪しいことが多すぎる)という明快な構図である。
だから、妖怪岸信介とか書くのは、ツイッターで「マスゴミ」とか「悪徳ペンタゴン」とかつぶやくのと同じ筆づかい。でも、岸信介を妖怪とするのは、妖怪に悪いとは思う。
杉田望『天才大悪党 下』p168
《 むしろ田中(角栄)内閣になって親台湾議員の構成が強まっていた。外務省幹部は日中正常化にはより慎重な態度を取らざるを得ない。戦後アジア外交の枠組みを変えることに臆病なのだ。岸信介、賀屋興宣などタカ派が外務省に圧力をかけた。国交に反対したのは戦前からの国粋主義者だけではない。超タカ派の中川一郎、石原慎太郎、中山正暉、渡辺美智雄、藤尾正行ら、後に「青嵐会」を旗揚げする連中だ。連中は福田赳夫の「親衛隊」でもあった。
《 連中に呼応し、右翼団体が動き、角栄事務所の周辺を「国賊田中!」などと、街宣車でがなり立て、田中攻勢を強める。外務省にも脅しをかける。永田町霞ヶ関一帯は右翼の街宣車で騒然となった。右翼の蠢動を政治家は恐れ、沈黙を守る。》
「読書メモ」
主達衆(おもだちしゅう)・・・新潟特有の言葉なのか。つまり、閨閥学閥によって守られた、エスタブシッシュメント層という意味で田中角栄への抵抗勢力である。結局、京都の町衆というのも同じような感じかな、一般的な日本語ではなんというべきか。支配層。既存エリート層。
中ノ島線で最終まで行って、何か少し話をしてまた戻る。終わってしまったスローガンがその主が死んでも残っているというのは、昔からお役所にはけっこうある。ふと、3年以上動かない預金口座のことを思い出した。それを福祉や文化に使うというアイディアをどこかの国がやろうとしているというような話を。
お役所が、よく、有名になった人、どこかでいい成績をあげたスポーツ人とか、海外でアーツの賞を取った人を、屋上屋を重ねて表彰したりする、「顕彰制度」というのがあって、これほど、むだで、でもお手軽なので、これで「文化政策」っていわれるとあほくさいなあと思いつつ、ぼろぼろあったりする。
どこかの文芸雑誌が新人賞を出すのは、出版ビジネスのためだし、映画界で賞を出すのは、映画の宣伝のためだからわかりやすく、そういう賞を出す人を喜ぶ大衆がいまだにいるのが不思議なだけで、一つのご商売マーケティングだわなあと思っていればいい。
が、非実在老人を調査しなくちゃいけなかったり、児童ネグレクト問題にも対処しなくちゃいけないご時勢にあって、いまだに能天気になんちゃら賞を税金で表彰して、総理人気とか知事人気とかお亡くなりになった方のため?などに、利用しているようなことばかりであるのは(大本は生前叙勲制度であり、つまり、天皇制度維持装置の模倣拡大、権威主義的ミニ天皇づくり)、もうよしたらいいとみんな思っているのに、だれもいわないのはなぜかなあとかちょっと思いつつ帰る。
8/12(木)
妹と姪っ子(二女)を京都でも案内しようかと思っていたら大雨。
で、実家へぼくが午後から行くことにする。
姪っ子は高校2年生、オープンキャンパスにすでにいったりしている。9月にすべての教科のテストがあるそうだし、いろいろ宿題をやっている。ちゃんと本を読むという宿題とか、アメリカ大統領の演説などを読む英語の宿題とか、面白そうだ。漢文をやっていて、読み下ししてみるとまずまずできたので(重陽の節句のお話)、問題を解いてみせたらみごとに間違った。
お袋が「あやちは・・・」と話していて、妹が、この「あやち」をすごく久しぶりに聞いたという。確かに古い大阪弁だ。 70歳以上ぐらいしか使わないのではないか。妹の姑さんも、ふるい大阪弁の「ざんない」をよくつぶやくのだそうだ。
妹と姪っ子を観劇に誘う。当日は大丈夫かとは思ったが、一応、電話を精華小劇場にしてから、玉川から難波へ。千日前線に久しぶりに乗る。ここに図書館があって二人とも夏休みは勉強部屋だったな。水掛不動さんに、姪っ子(長女)のことなどを祈る。
この精華小劇場のいわれ、地下に給食室のある小学校と幼稚園をいささか解説。
少年王者舘の初日はなかなかの人気で、事前に電話をしつつ、早く行っておいてよかった。椅子席の一番前に座る。その前にも席が数列あり。かぶりつきもまた若い人には面白いとは思う。
『ガラパゴス〜星ノ天狗〜』19:35〜20:45。作・演出:天野天街、チラシデザイン:アマノテンガイ、音楽が玉水など、振付は中心(ひとり役)の夕沈。ひとみ役の黒宮万理が水色のワンピースでヒロインビーム。
「星ノ天狗」というのは、チラシにはなく、当日パンフに小さくかいてある。でも、「ガラパゴス」も「星ノ天狗」も、具象的にこのお芝居を説明するというものではない。
始まる前、チラシの束が多いなあとびっくりしている二人に、独特な照明の塔体の配置を見つつ、ここのお芝居の特色をすこしだけ解説。
映像的なもの、ストーリーやテーマが何かというよりも、言葉とイメージの自動増殖にめくるめいていたらそれでいい・・・
あと、トラップ(ループしてなかなか次へと進めなくなるシーン)が絶対にあるからこれは変で面白いよ、ということとか、踊りは演劇内のものとしてはなかなかへんてこでユニークで特色となっているなどなど。その他、文字遊びについては言わなかったが、結局、今回はそんなに頻出はしなかった。でも、駄洒落的連想ゲームはけっこう響いたけれど。
妹が、トイレにぼくがよく行けるなあという。けっこう、小学校って怖いのだそうだ。演劇の内容もお盆にふさわしい感じはするし、長崎の原爆とかエンタープライズ(昭和43年だから1968年、騒乱の季節)とか、すでに廃業した(はずの)ハウステンボスとか、死への入り口としての列車の窓のうちとそとの裏返しごっこ。
時を隔てた3人の「イチロウ」たち・・・うちの親父が小暮一郎だったので、ちょうどお盆によかったって、お袋にいっておいてね、と妹にいって別れる。
8/13(金)
西九条へ。野田と違って何でも止まるし賑やかな駅前。卒業生が勤めているはずの大日本塗料をみながら梅香へ渡る。
早く宮本マンションに着いたので(梅香堂はしまっていた)、すこし、前の正連寺川べりを歩く。安治川かと思ったら、安治川とは違う。
昨日、お袋が11日におガラを焚いて迎え火をしたといっていた。昔はキュウリやナスで馬や牛を作り、15日には送り火をして、安治川に供え物を流したなとか話した。
NPO法人プラス・アーツの勉強会、+arts schoolの第3回でのお話。19時から21時11分ぐらいまで。1時間話して発泡酒とかパンとかでて、みんなの紹介とからめて色々話す。もともと、1時間もほとんど即興というかなりゆきで何を話すとかそんなに考えていないで話す。でも、資料はいっぱいお渡ししておいたので、帰って読んでいただければ、何かにはなるだろう、たぶん。
場所は、宮本マンションの1階。+artsの倉庫になっているが、パーティとかできる。+arts konohana bannks。30名ぐらいだが、今日は17人程度だったと思う。線香がたかれ、でも話していると風が抜けた。
タイトルはまえの日録に書いたとおり、『アーツマネジメント入門 〜アーツとまちつかいの微妙な関係〜』。大平正芳さんの田園都市国家構想ではじまり、宮澤賢治の「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの大きな第四次元の芸術に創りあげようではないか・・・」でおわる、たまたまだけれど。 http://www.plus-arts.net/new/wp-content/uploads/2010/07/plus-arts_school_vol3.pdf
「微妙な関係」というのは、最近の日本人的用語としての「微妙」(表立ってはみせないネガティヴな態度・気持ち)というニュアンスで適当につけたが、これって、ぼんやりおかしいかもなあ、と思っていたので、「微妙な」を、微細に妙味を持つというプラスな意味合いにしてはどうか?というような、思いつきをいったりもした。
あとで、「妙」を漢語林で調べると、中国語としてのもともとの意味は、「たえ・この上なくたくみで、言い表しようのないほどすぐれていること。すぐれて美しい。人知ではかり知られない、すぐれた働きがある。この上もなく奥深い。わかい」という意味で、とても肯定的な言葉だったようで、それが、「国」(日本での意味づけ)では、「普通でない、変わっている、変な」とあって、「奇妙」がある。普通でないことが、ネガティヴになるんだなとこれだけで日本特質をいうのも大げさだが、微妙が微奇妙という意味になることとかが、空気を読むとか、画一的、同調的な性格を持っているのはそうだろうな、とか感じたりもする。
駅前のわらわらで、23時半まで。京橋で通勤特急にて枚方、準急淀行きでちゃんと帰れる、最終の一つ前かも。
8/14(土)
1945年の今日、御前会議があって(「昭和天皇の裁断という異例の形をとって軍部などの戦争継続論をおさえ」(『もういちど読む山川日本史』p313:山川出版社、2009)、ポツダム宣言を受諾することを決定し、連合国へ通告。
9/2に、「東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、日本は連合国とのあいだで降伏文書に調印した」(同上)のだから、国内的には、8/14が敗戦記念日で、国際法的には、9/2が降伏記念日ということになる。
じゃあ、明日の「終戦記念日」というのは、それを玉音放送で多くの国民が知った日ということになる。終戦としり、いままでの緊張から開放されつつ、負けたなあとがくっとしたり、もう殺されないだろうなあと内心ほっとした日、というようなニュアンスだろう。もちろん、神奈川県知事のように、婦女子はレイプされるかも知れないから県庁を解雇したり、直後は色々あったわけだが。
玉音や玉砕の「玉」は天皇のことだと明治以降刷り込まれていたから、ぼくも、玉砕というのは、集団自殺(万歳突撃)をして、玉=天皇陛下のために砕け散ることだと思っていたら、中国の歴史書の言葉だった。
新明解国語辞典にも、「〔無価値な瓦となって生きるより、いさぎよく玉のごとく砕けるの意〕捕虜となるよりは、戦死を覚悟して全員力を尽くして敵に当たること」とあって、瓦全(がぜん)が、反対語となっていて、天皇さんとは無関係となっている。しかし、瓦はとても価値があるし、それが壊れないことはほんとうに意味のあることで、玉なんぞ、飾りの価値しかないし、それが砕けると怪我してしまうほど無価値、いや、有害じゃないか、とか、ちょっと昔の価値観って変よねとか思うし、そういう中国古典を、中国と戦争させている大本営が、美化するために使うというのもまったくノンセンスのきわみだと、数日前NHKがやっていた番組の録画をみながら思った。
8/15(日)
旧暦のお盆(7/15)は、8/24なのだそうだ。昨日、岩清水八幡宮でなにやらモーター音が鳴り響く競技があったようで、いっちゃんというたこ焼きやさんがバイクツーリストたちの拠点になっているし、面白いあなとも思ったり。
盆踊りは、旧暦に限ると柳田國男さんの大正時代のエッセイ(「浜の月夜」 「清光館哀史」)はのべるのだが(満月が女性の踊り衣装を照らすので)、高校の教科書にあるのだそうだ。
神戸アートビレッジセンターの地下1階からご案内。珍しく、アニメを見る。
プリート・パルン傑作選『雨、ダイバー、眠りたい女』のCプロ4作品。つづけて、Bプロもあったのだが、かなりお腹いっぱいになるし、ちょっと寝不足もあるが、くらくらしてきて。とくに、『ホテルE』。
どうして、ヨーロッパ・アニメーション界のゴダールってよばれるのかなあと思っていた。もちろん、手法の奔放な感じ、ロードムーヴィー的なめくるめく感などは、そういう比ゆがまっとうだとは思うが・・・ビデオで納得した感じがする。
若い女性と一緒に映っていて、そうか、プリートさんは、かなり男女の機微に焦点をあてつつ、そのエロスやタナトスを掘りながら、とても政治的、文明批評的な世界とを往復するからなのかも知れない、と気づく。3つめの『法王のいない一夜』という、60歳のお誕生日、幸せな若い妻との幸せなひと時映像を見ながら。
でも、その題名の意味はわからないが『法王のいない一夜』(2006年、6分半ほど)で、パルン夫妻が窓ガラスいっぱいに絵を描いていく動線をたどるだけで、アニメーションなんだから、すごい。でも、限界芸術的でもある。普遍と陳腐とのすれすれ感もまた楽し。
はじめの『トライアングル』(1982年、15分)。いやあ、すごい。堪能してしまう。エロくダーティでしかも愛らしい。醜く意地汚くしかも暖かい。寒く貧乏ちっくでしかも豊か。繰り返しと三角関係の反転。二項対立の襞がそんなに多くないので、そのあとの2つの作品よりも予想はたてたすい。と思っていたら、気持ちよく覆されるのもまたいいんだな。
そのあとの『ホテルE』(1992年、30分)は、この時代ならではなのか。東欧と米国との落差がドア一つ。境は明確なのにいつもするりと通られるようになってしまったことの不幸。いささか観念的な感じがしないではなく、自分の意識がふーっとすぐいってずりおちる座布団を直す。
最後の4つ目、最新作のようだ、2010年、23分とちょっととあるし。『雨のなかのダイバー』。降りしきる雨。アニメならではではある、実写だったら大変。何かが始まるようで始まらない、男は何をしているのか、いや何をしないのか、不分明なまま展開だけがからからと回って行く。繰り返されるようでそれもどうでもよくなる。ただ、実在するのは降り続けている雨だけ。
暗さに眩暈。両目に隈。
おぞましい。おぞましすぎる。
世界に、襞が多い。多すぎる。
毒が満ち溢れている。溢れすぎている。
そうそう、プリート・パルン、1946年、エストニア生まれ。それにしても、はじめて聴く感じの名前だなあ、プリートっていう名前。奥さんのオルガさんという名前はよく聴くが。
250円の松屋。神戸駅前の蛙たちが場所を仕切っている。
ジンジャエール買って普通にのって、新福島駅。
招待状は家においていたが、束芋展『断面の世代』関連のワンダリングパーティ再演(どうしてもいけない、とても残念!)お知らせに一枚束芋だけの招待券が入っていたので、新国際美術館へ。
プリートを見てしまったために、やっぱり、比較してしまう。希薄なおぞましさ。
比較するのはむごいけれど。それでも、この毒の薄さが日本のいまなのかも知れない。
《KOGURE Diary/こぐれ日録》の扉へ戻る
|