こぐれ日録 KOGURE Diary 2010.2/15〜2/21


こぐれ日録680 2010年 2/15〜2/21

2/15(月)

あめ。京阪七条駅から京都駅前ホテルへ。歩きながら、ここのコミセンの使い道は決まったかと思う。
アウトサイダーライブの研究会をどういう形でまとめるかの会議。アサダさんは昨日あたり歌舞伎町にいたようですよ、とか話しながら。
文科省も厚労省も報告書の期限厳守がよりきつくなったようなので、智慧を絞る3名。わたしは、1500字よりもうちょっと多く書かせていただいたらそれでよし。

基本的な内容は、アンケート調査が315サンプル、20サンプルぐらいはより詳しく。そして、このまえの大津プリンスホテルでのワークショップとそれに基づく公演についてを、実践型調査研究としてクローズアップ。さきらの西川さんと林加奈さんが対談してアサダさんが聞き出して行くという案が出ていた。さらに、ひんがしの研究員さん二人がこれをどうみて自分たちの活動とどう見比べるのか、そして、これからどうするか?っていうところも書いてもらおうということに。

さきらはもし劇場法が出来てしまったらどうするか?って聞かれて、もちろん、全面的に取りに行く。16億円争奪戦には完全勝利しかないですよ(笑)なんていう無責任はことをいって帰る。

かえり、聖光堂の生八ツ橋を買う。1年半前に親父さんがなくなり、職人さんも停年になって、人手がなく大変だと店主が話す。手作りで美味しいのに、なんとかもってほしいものだ。
文章をさっそく作ろうとおもったが、ツイッターあそびに終始。

夜には、ずいぶん買っておいた(ボックス買いプラス数巻)、岡本喜八監督作品のなかから、初期のフィット作『独立愚連隊』(1959年、109分、東宝)を楽しむ。
http://www.geocities.co.jp/Milano-Killer/8668/t/gurentai.html
すっげえ、面白くてびっくり。でも、これが一番岡本映画では面白いのかも知れないと頭をかすめるが、でも、これは、政治学概論にも使えそうな、戦争をめぐる敗戦後すぐの日本人が過去を眺めつつ、西部劇的な処理を施した快作であることは疑いない。

なんと、主人公の佐藤允(まこと)がいい感じなのだろう。加齢した佐藤允しかしらなかったので、びっくり。すぐにやめたという上原美佐が、雪村いずみとともにさわやか。夏木陽介もあたりまえだがずいぶん若い。


2/16(火)

11時からさきらの松崎さんがやってきて、19日のシンポジウムの打ち合わせをする。
" http://www.sakira-ritto.net/detail/detail.php3?No=2010011801"
是永さん(わらび座)には、100名は呼びますって彼はいっているのだが、いま申し込みを聞くと5〜6名ということ。輪になって語ればいいじゃん。

今日は、学生学会のお金を要求するっていうことがあったり、しばし雑用がある。後期のアーツ演習Uの日にち確定もこちらですることになった。
そうそう、後期の井上信太さんにやっていただく「空間デザイン演習」は木曜日3限目になったので、暇な時に覗きに行くっていうことができなくなった(大阪成蹊大学の授業を長岡京でやっているものね)。信太さんから人数は少ないほうがいいので、宣伝しないようにといわれている。このブログを読むような3回生ならきっと抜群に面白くって、宣伝しないので少人数演習が出来るのではないか!と思う。できれば、4限目以降を入れないようにするといいかも。第1教務課のK村さんに、児童教育学科の工作室みたいなところがいいのではないか、といっておく。

今日すこしやっておきたかったのは、交響圏について考えることだった。そのために、見田宗介『社会学入門』(岩波新書、2006)「補 交響圏とルール圏―〈自由な社会〉の骨格構成」を読み直す。p168〜201
"http://syunpo.exblog.jp/6086768/" target="_blank"
"http://blog.goo.ne.jp/mailtotaro/e/9549bd9c5c52e03e69cc9b6bf8074298"

他者の両義性:「生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者」=P
「生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者」=Q
P=交歓する他者、関係のユートピア、交響するコミューン→結合や連合や友愛
Q=尊重する他者、関係のルールと協定、契約の関係→近代の市民社会の理念のエッセンス

P:「溶解するコミューン」(同質化し一体化する共同体の理想)ではない=個々人の異質性をこそ希求し享受する=交響するコミューン、交響圏
Q:交響圏の外域の市民社会=交響圏(ユートピア)たち相互の間の関係の協定としての「ルール」圏、これがあって交響圏の自由が保証される
"http://d.hatena.ne.jp/ishigakitakashi/20091125/p1"  を参照のこと。

ルールは、交響圏の自由を保証する方法としてのみ市民社会のミニマルなルールのシステムを構築すべし。いままでは、閉じられた(一体化の)共同体があり、それを社会圏にいけば集列体(企業や役所、その内部システムとしての官僚制)として序列化=制御してきた。これからは、親密圏は交響体となり(自由な社会へ)、それらの集まりとして「連合体」が社会圏において存在するという形に転位していく。

要約しながら分かってきたのは、親密圏と社会圏という言葉はニュートラルな概念であり、共同体から交響体(圏)へという動き、集列体(制度:官僚制もその一つのルールだと推定)から連合体(公共体)へという動きがゾレンとしてのこれからの社会構築像の提言として(筆者の「ゾレン(さすべきこと)」として)掲げられている。

見田宗介さんは、親密圏のこれからの形を交響圏と呼んでいて、それらを必要最小限にするものが「ルール圏」であり、連合体(公共体)である。とりあえず、交響圏と公共圏(ルール圏、連合圏)でもいいのだが、わかりずらいので、いまのところは、親密交響圏(あるいは、交響親密圏)と公共ルール圏(あるいは、連合ルール圏)と名づけておこう。

では、近隣の地域社会(いま「コミュニティ」と呼ばれている集合体)などはどうか?ここに、これらの中間の領域が設定される。ただし、第3のものというのではなく、比重として示されている。つまり、たとえば、パーセント表示をすれば、50%交響関係、50%ルール関係というような様相の量的な比重。

魂=P(交響するコミューン)、シーザー=Q(シーザーのこと)
「魂のことはわれわれの魂に。シーザーのことはわれわれの内なるシーザーに。」p201


2/17(水)

今日は研究室のワックスがけの日。ツイッターの誰かのつぶやきに反応したりしている。たとえば、「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」。「なんでも効くという薬はなんにも効かない」・・

カーリング・チーム青森の健闘を眺めた後、大学へ。関西広域機構の文化観光担当の方からこれからの関西広域連合(仮称)の動きなどを教えてもらう。知事たちの温度差や思惑までわかってなかなかに面白し。徳島県の後輩の知事の名前がでてこなかった(飯泉君だったな)。

昨日、「交響圏」のこと、見田宗介さんの『社会学入門』の最後のところをメモった。

が、じつは、さきに、若林幹夫『社会学入門一歩前』(NTT出版、2007)を読了して、おお、この著者、若林さんは、大学1年生のときに見田先生に習ったという話があり、「離れてあることの自由」の問題は、この『社会学入門』の「補 交響圏とルール圏」が参考になるとあって、研究室にいって読み直したのだった。

で、この若林さんの本なのだが、じつに面白く(私の若いときに読んだ本などと近い世界だからでもあるが)、「うたっているのはその歌い手なのだろうか? それとも歌が、歌い手の口を借りてうたっているのだろうか?」(p45)という問いかけなど、実にアーツの鑑賞論としていつも自分も思っていることなので、嬉しかった。一つのフレーズだけ、引用させてもらっておく。[第十四章 離れてあること、退きこもること」からp197

《 非行や非行集団もまた、社会の中で青年や少年が「離れてあること」の形であり、文化」であった。・・・同じように、かつての旧制高校生や大学生のように端から見れば空疎な人生論や学問論、政治論に耽溺する「若者」も、実世界から「離れてある」ことの型であり、文化だった。

《 だが、現代の日本ではそのような「離れてあること」の文化が衰退し、さまざまな「離れてあること」を可能にする場所も少なくなっている。実用性と実利性の中で「自分の個性」を探し、「コミュニケーション能力」と呼ばれる自己プレゼンテーションの能力を高めることを早い時期から求められる現代の社会の中で、「離れてあること」はかつてあったような社会的な受け皿と場と意味づけをもたなくなった。・・・・・・・
《 「役に立つこと」と「コミュニケーションすること」が支配的な価値をもつ社会で、「離れてあること」はときに暗く、無意味で、立場のないもののように感受され、理解されてしまう。「ひきこもり」という問題は、私たちの社会で「つながること」と「離れてあること」の関係のあり方を―世界と社会から退きこもって―考えるための、ひとつの問いの場を提起している。》

平田オリザ・蓮行『コミュニケーション力を引き出す―演劇ワークショップのすすめ』(PHP新書621、2009年)をようやく読む。『社会学入門一歩前』と対照的なノウハウ本。「役に立つ」こと、コミュニケーション能力のことがこれほど臆面もなく書かれていると逆にすっきりするぐらい(もちろん、平田さんは、プレゼン能力ではない新しいコミュニケーション力に関わる演劇ワークショップだとしているけれど)。以下少し引用

蓮行「第3章 仕事に役立つ演劇力」より
p160 《 演劇ワークショップには、コミュニケーションが個人の能力のみに依存するのではなく、コミュニケーション環境に大きく左右されるのだということを、短時間のうちに実感したり、人がやっているのを見て「気づく」ことができるという、優れた効果があります。》

p161 《 演劇は、個々のコミュニケーション能力を向上させるだけではなく、コミュニケーション環境の検証・整備能力をも向上させるのです。
《 そして、コミュニケーション環境を設計することを、「コミュニケーションデザイン」と呼ぶわけです。演劇という舞台芸術は、登場人物達の、そして、演者と観客のコミュニケーションデザインに、有史以来ずっと取り組んできたジャンルなのです。》

また、定義もあって、なかなか「有用」な新書。
演出(家)=集団で創作する作品に、最終的かつ統一した世界観を与える作業(をする人)


2/18(木)

完全休暇。
午前中、アパートのローン利率を0.5%さげてもらう金銭消費貸借変更契約を結ぶ。
この金銭消費貸借契約っていう民法上の名称ってじつにヘンテコリンだと改めて思う。銀行の方は汗を流しながら受け取り書をペンでつついて打ち出しているぼんやりとした間に。民法の条文を探したりしている(第587条の消費貸借契約・・)。

給与振込みをしているので、少しがんばった利率にしてもらったのだが、ネットバンキングを一度してやめたのを復活するとか、少しこちらもお約束をしたこともあるし、ある事情で唯一わが家にあったウィルコムの携帯電話が来月解約されるので、まあ、携帯電話があってもいいかと思い、ホントに隣のソフトバンクのお店でiPhoneを購入した。
運転免許がなく、パスポートが切れてしまっていて、保険証と公的機関の通知が必要だったのが、うっかり後者を忘れてしまって、市役所で住民票をとってようやくゲット。色々失敗もあったが、ツイッターが出来たり、You Tubeが見られたり(小暮はなのライブがなかなかぴたっとはまる感じ)、面白かった。

アーツ的なことはまるでしなかった一日だが、宮澤賢治の「青森挽歌」を数回声に出して読むことはした。最後までちゃんと読みきっても、どうも全体が見えないぐらいに複数の声が入り混じるもの。

実に生活そのものの肉声やトリビアルなこと―括弧書きで頭を落としてつぶやかれ、それに賢治が肉声にして呼応する部分―と宇宙的規模での思索の万華鏡が絡む。つまり、後者は、生物の誕生からの歴史、宗教的な超越的諦観・・・

そのふたつが、ダイレクトに結びあう瞬間の周りを読む側はめぐりながら、どこにもたどり着けない。でも、確かにその詩歌のキーとして「林檎」がある。この「林檎」(りんご→苹果)という象徴的形象は賢治を銀河の玲瓏レンズであるとともに詩(死)世界でもある「大きな水素のりんご」へと誘い、また終わりに苹果となって妖しく匂うことで一種の覚醒を促し、最終の祈りへと導いているようにぼんやり思った。


2/19(金)

iPhone、2日目。入力が大変な感じ。これは携帯電話を持っていなかったせいかな。
携帯電話を携帯したことがないため、忘れてはいけないと思うものが増えて、そのためだけではないが、さきらの帰り、どこかに、さきらでのシンポジウムの資料一式を忘れてしまった。

あと、これから気をつけることとして、さきらで夜に飲食をするときは、帰りの電車時刻の確認があるな。今夜は、23:46の栗東駅発に乗ったので、京都駅乗り換えで近鉄のシャッターが閉まるところで、タクシー代が5000円を越えてしまった。23時前に退席が必要!

ということで、さきらのシンポジウムの資料がないのだが、劇団わらび座の代表、是永幹夫さんの話を久しぶりに聞いて、劇場法の話も含めて非常に興味深かった(図書館や保育所までがセットされる新しい大分市の複合的文化拠点に1年半したら移るということで、それにしては多くの新しいプロデュース企画を持っていて忙しそうだ)。ただ、少しマイクとの距離があったために、聞き取りにくいという声をあとできく。たぶん、それとともに余りにもさまざまな経験知がありかつ話に固有名詞が多くて、どのあたりの話なのかが最後まで聞かないと分からないときもあったのかも知れない。

後半のパネルディスカッションは、しがぎん経済文化センターの田中正彦さんとさきらの事業担当部長の西川さんに入ってもらい、会場から質問票(3枚)も集めつつ進める。「KEIBUN」という名前で展開される西洋クラシック音楽事業が滋賀銀行のCSRとして行われて25年目。はじめは中央から有名人を!という発想だったが、少しして、滋賀の若手演奏家を発掘して世に出すという事業に変わったという話。足元を掘るということでは、さきらもアウトリーチなり御旅所プロジェクトなどをしていて、うまく、エリア範囲が違うなかで、同じで、とりあえず相似形の話で終える。このまえ、大津プリンスホテルのとき、舞台美術などのスタッフで活躍していた女性がとてもいい質問をしてくれていたのも嬉しい。

もらった資料を忘れてしまって今ないのだが、これから、滋賀会館の放課後だったか、そういう企画をされる方にも会って、私は3/26に紙芝居をみたあとにトークする予定。限界芸術の話を中心にしてほしいとのこと。お葬式や紙芝居、そして、チンドン音楽やジンタ的音楽隊などの話を前にしたのが興味ぶかかったということ。そういえば、井上信太さんのスーパーサブさんが怪我をしたっていう話を初めて聞いた。

3月はさきらにも4回前後お邪魔することになりそうだ。というのは、アートマネジメント重点支援事業という文化庁の助成事業があって、コミュニティ船橋の下山さんのトークを3/13のマチネにしたり、大澤さんと劇場法について話したり、そういう企画に関わる(一応、監修する?)ことになったからだ。

また、是永さんの話のなかで、倉敷での伝統芸能をフィーチャーした倉敷音楽祭をわらび座がやっている(3月)という話は、いまのゼミ生の一人が岡山出身で、民謡を卒論でテーマにしたいといっていたので、これは知らせなくちゃなあとも思う。


2/20(土)

大学院入試。今回はかなり当事者的な立場でどきどき。
でも、昨日もけっこう飲んでしまって、睡眠が3時間弱(5時半に起きてしまうのが悪いのだけれど)。
先生たちと話すいい機会でもある。
地域と住宅を考え設計したりコンサルしたりできるような地域づくりてき設計企画会社を作りたいというT先生のお話。
これは、まさしくアーツマネジメント分野でも同じで、東部文化会館を京都橘大学が運営すると仮にもしなったとしたら、ちゃんとしたソーシャルビジネスとして立ち上げるようなことをすべきかも知れないとか、いろいろ妄想した。

AI・HALLへ。もうJCDNの踊りに行くぜ!!も10年になるとかや。びっくり。
少し早く着く。帰りに気がついたので売店の売り子はキャサリン(井手上)さんだった。それで、というわけでもなく、水野さんが強引だったわけでもなく、画面を拭くお人形と耳掻きを買った。手ぬぐいを買わなかったのがちょっと心残り。

4組で、前半の二組のうまい対照的構成にまず感心した。ダークで激しいMOSUTRO(怪物)と、やさしくひたすら朝をイメージさせてくれた長内裕美「concord」。始まりの工夫も対照的だがうまい。暗闇での音だけの想像力刺激。はじまり1分勝負のMOSUTROと、気がつくと明かりは下手にともって、長内裕美がすでにいる無造作の開始。

でも、MOSUTRO(振付・構成:斎藤亮)も、エロスなえぐさポーズの前後に、ふと、穏やかさや可愛さのある風景を垣間見させて、その激しさ、おぞましい肉体の業との確執をより重層化相対化しようとしている。15分程度なので、ちょっとそのあたりの構成がシンプルな感じがするのが残念か。5名の若い女性の体。一人だけ違う感じの服装で、ある狩りの場面を想像した。おぞましく甘美な夜の宴のような。BATIKとか、色々ダークなものって出ているけれど、それとの比較は不要だろうな。

長内裕美は日常のしぐさとか、微笑み、ちょっとした愉しささがし。緑の残像がまず腕を回す。遊戯的であったり、構築的であったり。いろいろなボキャブラリーが身体的にあって、それを、全部は見せないではじらっているようなダンス。音楽がちょっと甘すぎるかも知れない。でも、それも特徴か。

休憩後、タケヤアケミのソロ。ビキニのお肉の緩みが一番強い印象を与える。ターザン女のような黒髪と。さいごは逆に無害な草食男子のような目黒大路。でも、構成とかあんまり考えていないのが、後半のアジで、前半はよくきれいに考えられたプログラムになってしまったので、後半はかなり無秩序でダンスシーンを揺さぶろうという意図があったのかも知れない。ステージ落ちは意図的にはできないが、でも、それはそれでかわいかった。



2/21(日)

めくるめく紙芝居。伝わりが悪いのか、障碍のある人は二人のみ。太陽クラブは忙しいからなのかも知れない。どうやったら需要を見つけられるのか。総合支援学校とのパイプがいいのかなあとずっと思ってはいるのだが。新3回生が来てくれたのは(遅れてきたけれど)嬉しかった。

京都府立文化芸術会館へいくため、6時終了なのだが、30分前に山科青少年センターーを出る。実は10分ほどおしていて、もうすこし居られたが、その間、大熊さんやいろんな人に会う。京都橘高校の先生とロビーでやっていた古楽アンサンブル・サリーガンを聞く。演劇部は部員も少なく楽だから顧問になったらずいぶん活躍するように去年あたりからなって嬉しい悲鳴だという。3年生も出ているのだそうだ。文武両道ならぬ文劇両道?

恥ずかしながら、farっておならっていう意味も知らず、ワンダリングパーティ『silent fart,holy fart』を心の底から笑い、かつ、深遠に震える。クリスマスソングのパロディであるかも?ということもツイッターで教えられたのだが、「holy」にはこうごうしいまでのえげつなさっていうダブルミーニングがもともとあるのかも知れない。そうはいっても、私のような英語音痴には、日本語題名とかがいいけれど。「静謐な屁、荘厳な屁」
作・演出:あごうさとし、高杉征司・金本健吾の二人劇。ラストあたりにちょっと韜晦癖があるが、その裸体や行為、えげつなさをめぐる哲学的衒学的ノンセンスぶりに衝撃を与えつつ、ほろっと甘い社会派でもありつつ、でも、SMクラブ的猥雑さもある。

どっちもMなのだろうが、これは常に交換可能。交換可能なサマを女王さまを待つ、ゴトー待ち的セットのなか、蟻へと視点を落とすことによって肛門を上げ、カフカの変身を彷彿とさせつつ、標準語と関西弁、エリートマスコミ部長と東大阪(あるいは東淀川区)あたりの町工場のおっちゃんを対比させ交合させる。

続いて、京都橘高校演劇部のお芝居も観る。高校生から10年後。ノストラダムスから10年ということ。まるで自分にはぴんと来ないので大丈夫かなあと見ていたが、その終わり方に衝撃を受けた。おお、しぶい。『ぺらぺら神話体系・追憶のハルマゲドン』。うちの高校ってもっと軽くて元気!っていうイメージがあったので、少し内省的な生徒たちがいるってなかなかに新鮮。


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