大学に行き、学長や学部長に昨日の当日パンフの一部をコピーして渡すこととか、印刷室であれこれ。
そのあと、学生に鑑賞費助成金を渡すために、書類作りをして学務第一課へ提出。
そういえば、アーツ鑑賞?の助成金はもう出ていたのか。12/3が最終なので確認してまだだったら、ぼくがたてかえねばならない。
3回生ゼミは、どうも、寝不足もあって、コピーが間違ったり、ずいぶん、学生には迷惑をかけたが、卒業研究の発表は3回生としてはなかなか良い線まで絞れていて嬉しい。
ダンス教育実践について、次週も発表があるようで、これも楽しみ。表題を一緒に考える。
4回生ゼミは、一人、卒論をほぼ完成した男性学生がいてくれて、とても助かる。
かなりの刺激になった模様である。各節の分量がまちまちなので、もうすこし、分量の調節を来週、彼には支持するつもり。
よく考えたら、何もお大阪の選挙のことなど気にすることなど必要などなかった。
すでに大阪府はもとより(大阪楽座事業のHPぐらいはアップしてほしいが)大阪市もアーツアポリア時代とは違って、なにもたいしたアーツ政策はなくなっているので(精華小劇場事業とかもなくなっている)、誰がなっても自分の領域ではほとんど変わりはしないので(めざわりな大衆迎合イベントとかはでてくるだろうが、うすぼんやり御堂筋みたいな)、自分たちがすべきことをやっていくばかりだとようよう気づく。
27日に回収した分のうち、すこし興味深いものを転載して西川さんに送った。
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「イベントデザイン論」の受講者出席カードメモ
糸賀一雄記念賞第十回音楽祭(2011.11.27)を鑑賞して
◎ 芸術というものは会場のすべての人から創り出されることを実感した。私は芸術の面白さは鋭さにあるのではないかと考えている。ダンスにしろ絵画にしろ音楽にしろ、クオリティを追求したプロの作品はまた面白いのであるが、素人の表現を主体においた作品の鋭さというものは、また違った感動があるのである。
恥ずかしさや、「できない」という思いこみによって芸術活動からは無縁な人が多いなか、今回の音楽祭は大いに楽しむことができた。何よりも出演者が楽しそうにイキイキとしているのが良い。この経験が私にとって有意義な経験値になったことは間違いないと思う。
◎ まず始めに感じたことが、自分が想像していた以上の人の多さで、ほぼ満席になったことに驚きました。
数日前、中日新聞の滋賀版にこのイベントの特集が組まれていたので、注目度、期待度の高さを感じ取ることができました。一言にアウトサイダーアートという言葉を耳にしても、できあがった作品の展示だけのものもあれば、一から造り上げて、その場で発表することで完成するものもあり、形式−型はそれぞれであるが、様々なイベントに繋げることが可能であり、また、コラボすることも可能であると感じました。
もちろん、アウトサイダーアートということで、健常者が行うイベントとは違うところが多々あると思います。その方法が決してキレイなものでなくても、人の本質的な部分であったり、一生懸命さであったりといった部分が一番伝わりやすいのではないかと思いました。人によって捉え方は違うと思いますが、私はこのイベントに参加して、上記のように感じました。
◎ 初さきら。木の香りがすごくする。座席は少し低めな感じがした。お客さんには中高年から上が多い。お手伝いさんに高校生がいてびっくり。こういうお手伝いはいいなあ・・場内のお手洗いを使った。ほぼ和式!
うたのお兄さんに、うたのおばあさんがいた。まさかのボイパにびっくり。祭ばやしはよい。台が滑車付きなのをはじめて見た。音の暴力(笑)だけど、音とリズムで楽しく遊んでいる感じがして楽しそう。舞台の前に2本バトンがあって、ミラーボールがあるのが不思議だったが、最後に劇場がクラブみたいになるなんて予想外すぎる。うるさかったけど、楽しかった。
◎ 楽器を使ってオリジナルな演奏をしたり、元からある曲に合わせて、太鼓をたたいたり、おどったり、歌ったりなど、皆一人一人がリズムに合わせて楽しそうに一つになって演奏している姿が印象に残りました。それぞれのワークショップのチームに個性があり、見ていて飽きずに見ている方も一緒になって楽しめました。
演奏とは違い、身体を使ったダンスは、表現豊かで、一人一人が違った動きをしている、なのに、まとまっていて、またよくあるポップダンスなどとは違ったダンス、身体表現が見られて良かったです。
◎ 表現とは何なのか、というのを考えさせられた。なにか主張があるから表現するのだと思ってたけど、この公演で、自分が楽しい、うれしい、きもちいいっていうものでも「表現」なのだと思った。
◎ 今までにないイベントだと感じました。パトリック・ジジェ氏のスピーチから始まり、こどもたちの歌声を聴きました。どこか不思議でそれがアートというカタチになっているようでした。太鼓やマラカスでの演奏がユニークで、決められた何かを表現している訳でもなく、一人一人の表現したい何かを集めたアート、そう感じました、知的障害のある人たちが表現しようとしている何かが伝わってきました。私は「注文の多い料理店」がみんな楽しそうで個性があって好きでした。
でも、どの発表も、服の色やカタチが違っていたり、模様が違ったりと、とても人間らしく、美しいイベントであったと思いました。このようなイベントに参加できてよかったです。
◎ 宮沢賢治の詩ではじまり、近江学園の皆さんによる風の又三郎の合奏があり、そこに皆さんバンダナを巻いていて、小暮学園?といった妄想をしました。
ポラーノの広場や星めぐりのうた、?部の注文の多い料理店など、賢治の物語の世界と歌やダンスが混ざり合って、すごく楽しい時間をつくり上げていました。
スタッフのサポートがどのグループもしっかりしているとも感じました。
皆さんが障害を観客に感じさせず、楽しそうに、また観客を巻き込んで盛り上げていくステージであったと思います。特に、最後のミラーボールが回ってステージやら通路やらに降りてきて、客席を取り囲んでのところはとりわけそのように思いました。
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11/29(火)
昨日より頭のめぐりはましではある。
でも、珍しく、肩や首がいたい。ぼくは、ほとんど肩こりから無縁で、いつも妻のマッサージ師なのだが、ほんとうにどうしたんだろう??
と思ったら、この数日、自宅の古本を運んでいたので、それが原因の一つかも知れない。
でも、あさ、思いついて、研究室の前に、古本をあげますってメールしたら、かなり多くのゼミ生やその友達が来てくれて嬉しかった。昼休み、久しぶりにオルガン(2万円で買った中古の足踏みオルガン)を学生が興味をもって弾いていたりする.
学生が読み、また、いらなくなったら返すような、そういう循環本棚コーナーを文化政策研究センターのどこかに設置しておくといいなあと思ったりはしている。もちろん、管理している冊子との区別がいるが、なにか、そういう新しいシェアの形が表に出していくことが大事なのだろうとは思っている(生協さんとの関係とかちょっと気をつけるべきこともあるが)。
2回生ゼミは、自分が読んだ本の発表のはじまり。
そのはじまりが、服部正著『アウトサイダーアート』だったのにはびっくり。嬉しかったな。そのあと、すこし難しいが近代において芸術という概念ができてきたという文章をスローリーディング。
5限目は行政法。来週から裁判員になってもらって映像で自分はどう判決するかを考えるという授業に。その前に2回目のミニテストをしておく。よくできていた。
11/30(水)
来年度の予定が少しずつ決まってきている。
かえっこバザールinやましなは、5/20こどもフェスタ(山科三条通り)と6/17こどもの文化フォーラム(京都市東部文化会館)。これは、2回生と3回生のゼミ。
12月初旬に日本アートマネジメント学会の全国大会があるので、これは3回生ゼミ中心にしてもらおう。
3回生ゼミとしては。大学コンソーシアム京都で今年やっているアーツバーはできれば、自分たちだけでして、アーツツアーを中心にやってみようと思っている(ある意味、重要な実験をさせていただいたわけだが、色々ネックがあったな)。2回生をツアーのお客さんとして参加させることで、縦のつながりが出来るかも知れないし。
そうそう、東山青少年活動センターに行って、ステージづくりワークショップの日程調整をしなくちゃいけない、西田さんが戻ってくれているので安心ではあるが。
朝、研究室で、12/4の政策系大学の研究発表会の関係の作業をすます。9名の事前評価というもので、当日はまた発表を見て評価するのだそうだ。小森先生などが大学院入試説明会なので、その代理である。
終わったので、イベントデザイン論で教材に使うつもりの1943年版の『無法松の一生』を見て、限界芸術とか芝居小屋などのチェックを中心に授業案を作る。戦後の同じ監督(稲垣浩)のビデオもあるので、その小倉祇園太鼓復活のところを先に見せて、そこから1943年映画にいき、ちょっと、『男はつらいよ』の第一作の冒頭のお祭りシーンへとつなげて、大衆映画の繋がりというような考察も加えようと思っている次第。
17時半に大学コンソーシアム京都へ。その前にiPhoneのカバーさがし。一回だけの都市政策入門の講義をやって、帰る。
昨日見て、書き忘れたDVDのメモ。2007.2.4、『外は鬼 服はココat 下北沢Lady Jane』タブラの吉見征樹さんに、フラメンコギターの高木潤一さん。演奏だけも多く、でも、バスター・キートンの「即席百人芸」(1921)の無声映画は初見。かなり面白し。
昨日までに読んだ岩波新書(2011年)があまりにも考えさせられるので、抜き書きしておく。
吉見俊哉『大学とは何か』より引用:
p222-223
<・・90年代以降、大学生になるハードルが低くなっていったことは、大学教育のユニヴァーサル化と言えば聞こえはいいが、実質的に大学全体の雰囲気を根底から変化させてしまうリスクを伴った。大学でそもそも真剣に学ぶ気などない学生が増えていけば、学生の「常識」もまた変化し、大学は「学問」とは無縁のテーマパークとなろう。つまり大学は、もはや自由な対話やエリート養成の機関とはほど遠く、「学歴」獲得をほとんど唯一の目的に就職前の若者たちが束の間の休息を楽しむ通過点となったのだとも言われていく。90年代以降のこの国の大学は、このような変化を大学のレジャーランド化と言って嘆きながらも、その根底にある市場原理を否応なしに受け入れていった。ここに浸透するのはサービス産業の論理であり、哀れな大学教員たちは「お客様」たる学生を「店」に誘い込む客引きとなり、彼らに教育サービスを提供する労働者となった。>
p255
<・・大学とは、自由への意志である。しかしその自由の条件は、時代とともに変化する。今日、大学はもはや資本主義の外からの批評家ではなく、資本の循環システムの重要な担い手になっており、教師も学生もその一部としてそこに存在しており、そうした回路の外だけに立つことはできない。しかし資本主義もグローバル化も重層的な性格を有し、必ずしも一元的ではない知的運動を生じさせている。そのような複雑な状況のなかで、私たちは「不同意の共同体」を、何か単一の統一原理に回帰するのではなく、学知の重層的な網の目のなかで融通を利かし、隙間を見つけていくようなやりかたで形成し、新しいリベラルアーツと、今や発見や開発だけでなくマネジメントにも注力する様々な新しい専門知の緊張感ある関係を創出していかなければならない。>
次女がいまベルギーの大学院にいて、プラハの大学院にもいたし、そういう複数の大学の単位を取得していく欧州の制度を活用しているようなので、「大学の中性的モデルが、その近代的モデルや帝大的モデル以上に未来への跳躍の参考になる」(p240)という所が実に興味深かった。
中世の大学は移動することが基礎で、多数の都市が学生や教師の絶え間ない移動を媒介にトランスローカルに結ばれることで発展したそうで、それが、ぐるっといま一回りして、参照されるというのである。
12/1(木)
のんびり。突然また北風。
今年で長岡京を歩いて大阪成蹊大学芸術学部に行くのも最後と思うとちょっと感傷的にもなって、iPhoneカメラ。Instagramというアプリを最近使い出して、けっこう楽しく加工できる(ぼかしも焦点をはずすやり方なので自然)のでハマっている。
キャンパス内のspace Bでは、平井孝弥さんと延山菜摘さんの展示、『滲出−行為の向こう側−』が3日まで。授業が終わってのんびりと鑑賞。
平井さんの展示は、角材をカラフルにしたものだそうだが、どこか、路上にあるタイル敷とか煉瓦敷のかけらのように見えた。四角な世界、角角しているな。
最近、マンホール蓋をチェックするようになって、路面の表情を楽しむという長閑な楽しみ方に目覚めたからなのかも知れない。延山さんの展示は、テキスタイルとピンポン玉による曲面的リズム。
帰って、のんびり。『ティン・カップ』(1996年、135分)
監督は、ロン・シェルトン。主役は、ケビン・コスナー。ダメなレッスンプロのプレーヤーが偽善的なツアープロのシムズとゴルフでも女性でも争う(相手役のモリー・グリスウォルト扮する精神分析医は恋人であるシムズには愛想をつかしていた)というシンプルな娯楽映画。
でも、なかなかに楽しかった。
大阪市政調査会 大阪都構想 解説とQ&A より引用(http://www.osaka-shisei.jp/osaka_to.html 「これからよりすすむ集中化、選別切り捨ての流れに注目しよう」 )
< 「大阪都」―それは、橋下大阪府知事と大阪維新の会が進める構想であり、指定都市である大阪市と堺市を廃止し、それらの権限や財源のうち重要な部分を大阪都=府 が吸い上げ、また基礎的な部分を公選区長・議会を備えた小さな特別区が引き受けるという計画です。実現すると、大阪や堺は、先進国ではまれな、自前の強い自治体政府を持てない大都市になるでしょう。(パリ、ミラノ、ミュンヘン、シカゴ、トロント、台北など、人口100〜300万人の大都市自治体は国際標準といってよい。)その論争の結果は、長期にわたって、大阪の地方自治や諸政策のあり方を左右するでしょう。>
[音痴という言葉は、大正時代前後に造語されたようだ(西洋音楽との遭遇によって)]
すごく興味深いブログだったんで、引用させていただきます。
「WEB連載 音痴と日本人 安田寛さん-第2回- [音楽専門館]」より
<・・・「音痴」という言葉は、やはり近代になって西洋音楽が日本に入ってきてから使われるようになったと考えて、ほぼまちがいないことが明らかになった。音痴が新しい言葉であることのほかに、もうひとつ注目したいのは、仲間うちでは「私は音痴でして」と公言してはばからない日本人の態度である。
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・・・音痴という言葉には、否定的な意味だけでなく、みんなの共感を得る肯定的な意味が含まれているらしい。否定的な意味では音痴ははずかしいこと(恥辱)であるが、肯定的な意味では、むしろ積極的に公言したくなるほどのことであるらしい。そして否定的な意味は意識されているが、肯定的な意味はあまり意識されていないようだ。
音痴の隠されたポジティヴな意味とは何か。文明論の文脈からみれば、音痴とは、日本人が西洋起源の歌との衝突に起因する経験を、個人レヴェルで総括した言葉なのではないだろうか。 〉
12/2(金)
また寒くなっている。
政治学概論?。岸信介政権から池田勇人政権へ。
このままだと大平正芳さんが首相になるところまで辿りつけないなあ。
でも、田中角栄政権のはなしはちゃんとしたいし・・・
イデオロギーという言葉を丁寧に解説している政治の社会心理学関係の本をサブテキストにして配布。
イベントデザイン論では、限界芸術論を丁寧にやった。
アウトサイダーアーツとの関係をもうすこしシェーマ化したほうがいいかも知れない。鶴見俊輔さんのオリジナルな分類のままの作表(純粋芸術は伝統芸術と先端芸術にいまは分けているが、創作者の専門はまあ同じで、享受者は伝統芸術のうちポピュラーなものは大衆化しているという違いがあるぐらい)。
芸術種類 創作者 享受者
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純粋芸術 専門 専門(+ディレッタント)
大衆芸術 プロデューサ支配下の専門 大衆
限界芸術 非専門 非専門
アウトサイダーアーツ 非専門(特に集中する人) 専門(+親密圏内の人)
新2回生のゼミ選びは、珍しく、小暮ゼミが人気と、るかっぺがfacebookしていた。
去年は、谷口ゼミだったし、今年の新3回生ゼミは木下ゼミが人気だし、まあ色々だわな。
アゴタ・クリストフ(堀茂樹訳)『悪童日記』(早川書房 ハヤカワepi文庫、2001年)。
いやあ、面白いしすごい。セルフトートというアウトサイダーアーツの概念とも関係するし、まあ、久しぶりに興奮して読み終え、2作目が見当たらず(3作目は発見)、注文する(ダブってしまってもいいや)。
これをあとで、このように増やして作っておいた。
https://docs.google.com/document/d/1TL9uZjLj4G6-6e-DHHXi4VNiKINciHWTdVX-uCkHAqo/edit
12/3(土)
アーツ演習?のラスト。
でも、翌日にコンサートライブがある吹奏楽部のメンバーや政策系大学交流大会の実行委員とかがいて、すこし寂しい。
でももう授業アンケート。
このあいだに、鬼一家『赤落』をかけているとゼミ生2名が強烈に反応する。
天野天街さんの1994年の作品『トワイライツ』(33分)を最後に見せて、これにも激しく反応する学生がいるが、逆に怖いという学生も多くてやっぱり時代はどんどんゆるんでうすくなっているなあとは思う。
メインは、もちろん、A級MissingLinkの昨年のこの授業が学外演目『蒼天、神を殺すにはいい日だ』。
3回目の学生も多く、同じ劇団の違う作品を観ることで判ることがちゃんと後の感想にあって、よかった。
同じ演目を違うアーツカンパニーで観るということをはじめにした(『法王庁の避妊法』)ので、その両方が体験させられたのでまずはよかったということにしよう。
12/4(日)
大学院入試の説明会があるので、学部長やK先生が出られないということで、ピンチヒッターで、第7回政策系大学・大学院研究交流大会に出席した。第5分科会の発表する学生たち6組と、ポスターセッションの3組を担当。フィルムコミッションの話ぐらいが、アーツマネジメント分野どっぷりで、あとは、まちおこしなどの話。
はじめは、しんどいなあと思っていたが、とても学生さんたちの熱心な発表を聞いていて、自分も自分のゼミ生たちをこういうふうにファシリテートしなくちゃなあという気持ちになってきたりもした。
観光などの新しいイベント企画提案みたいなものがあるので、自分としては、もう少し小さくてもいいので試行したり、参考にする企画に実際に参加したりするなどの自らの実践的な体験を踏まえて、それを一般化するようなものも必要ではないかというようなコメントをわりと多くした。それでも、少なくとも、NPOや役所の人達へのヒアリングはしているようだし、外に実際に行くことはしているところが多いので、それはよかった。
学生セッションでは、うちの2回生のS君が司会をしていて、なかなか頼もしい感じだった。
ワークショップ形式にしていて、京都市役所がしているグループみたいな人達が積極的に参加しているようだった。傍聴席にいると、公明党の京都市議さんに挨拶されたりして、議員さんもずいぶん変わってきている気がする。そういえば、東部文化会館でも市議さん、府議さんにお会いしたりよくするが、公明党の方に出会う比率は多い。
懇親会では、京都大学の公共政策大学院のみなさんと話していて、文化政策を学ぶために自主的に人を招いているのだときいて、びっくりするやら嬉しいやら。
あとで、発表論文集を見ると「京都市における教育的アウトリーチの活性化にむけて―アウトリーチ・ポータブルサイトの可能性―」というもので、いま、京都府がポスト国文祭で次世代文化政策を検討している話ともつながっていて、実に興味深かった。
それに、財団法人地域創造の研究調査を参考文献にしていることも知って、まあ、地域創造を作ったことも悪くもなかったか、と思ったりもする(笑)。
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