Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》AKANE-GUMO Tobi-dogu
199.
2/20(火)
劇団飛び道具『茜雲(改訂版)』第1回Kyoto演劇大賞本選公演/京都府立芸術会館ホール
第22回Kyoto演劇フェスティバル(児童青少年部門もあり合わせて35団体も登場する伝統的な演劇祭)。そのコンクール部門である第1回Kyoto演劇大賞本選公演の一つ、劇団飛び道具『茜雲(改訂版)』を見た。
審査員は、ふじたあさや、太田耕人、九鬼葉子。15団体が応募してきて、4団体に絞ってコンクール。副賞30万円。残りの3劇団は、劇団パノラマ☆アワー、さらん、三角フラスコ、京都の私から見れば実力中堅劇団。
当日券2500円(ほとんど知らない人たちのなかにいるのは気持ちいい。挨拶を交わしたのは加糖旅団の岡野真大さんだけ。ほぼ満席に近いかな)。京都府立芸術会館ホール。
「一般成人を鑑賞の対象とする広い観客層に応える作品づくり」というのが選考条件の一つらしい。今日の作品は、その点は十分にクリアしている。「一般成人」というのは演劇に日ごろ接していない人たちということだろうが、この言葉一つをとってみても沸々と質問が湧いてくる。たとえば・・
そういうくくりの人たちはどんな人なのか、そういう人たちに応えているかどうかをどう分かるのか(案の定、翌日の三角フラスコ「恋愛心中」について、ジョニーという人の嫌悪感だけの短評が観劇速報に流れた)。
劇団飛び道具『茜雲(改訂版)』19:02〜20:59。作:大内卓、演出:藤原大介。《昭和23年、東ナカジマ名店街 混乱の時代を生きた人々の肖像》。
こまつ座とか二兎社みたいな題材で、年配の人たちにも馴染みやすいものだろう。独り言の形で状況説明をするのも、会話劇を窃視するように見て状況を観者が想像するよりは実に明解である(=てっとりばやい)。
1948年の商店街。そのはずれで暮れていく空を眺める人たちを想像すること。戦争の傷跡は消えていない。
呆然としたままの男げん太(山口吉右衛門)が主人公。げん太の息子が、1986年に死んだ父親げん太を回想するというお馴染みの形式(たとえば「わが町」「ガラスの動物園」など)をとる。
役者山口吉右衛門のうまさは言うまでもない。
中国大陸で後ろから住人達を鉄砲で撃ち殺し村を焼くことだけの戦争から帰ってきて、何も手がつかないまま、3年がたっている。おなじ商店街の連中は元気に闇米を売って商いをしているというのに。何かしようとすると、げん太のなかで、風鈴の音がしてやる気を萎えさせてしまうのだ。
でもげん太の妻たえ子(山本麻貴)は、にこにことして貧乏にも、周りの声にも動じない。いま夫は病気だけれどいつか働き出すだろうと、まわりがやきもきするのに、子どもを普通に育てている。
それでも周りがサポートしてなんとか生活出来るようにしてあげているから、やっぱりまだ牧歌的な時代であった(これは私もこの劇団の人たちも実体験ではないから想像ではある)。
メアリー=桜井章子を演じていた井沢はるひの衣装だけが色鮮やか(パンパン)。あとは、モノクロームの映画を見ているような衣装であり室内(平べったい舞台美術)である。
縁の下で隠れて話を盗み聞きする趣向は、よく文楽などで見かける演出。滑稽なやりとりが引き出される。
メアリーの死の悲しさと、彼女が残したお守り=背中へのまじない(背中は、ここが自分自身にとって絶対に見ることの出来ない身体の部分であることと関係している)との対置。
結核で亡くなった彼女を、かつて彼女が立ちんぼうをしていた、茜雲が見える町外れに弔うげん太。げん太はこれから、人が変わったかのように働きだしたのだ。
BGMでも流れていた戦後すぐのの流行歌は、シュール:
コッコッコッコッコケッコー。わたしはにわとり・・・。
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