Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Acacia_Walk

231.
6/17(日)
松岡錠司『アカシアの道』京都朝日シネマ

午前10時に京都朝日シネマに着くと、チケット売り場に列が出来ていて、京都橘女子大学文化政策学部の教授もいた。が、中国映画「山の郵便配達」を観るためだった。

私はモーニングだけ上映の邦画『アカシアの道』(監督・脚本/松岡錠司、2000、製作/ユーロスペースなど、製作プロダクション/映画美学校、90分)へ。プロデューサーは堀越謙三と松田広子(彼女には練馬の佐々木さんに紹介してもらったことがある。当時は「Swich」を編集していた)。

「ユリイカ」に続いて心に突き刺さる日本映画に出会えた。(もうすぐ上映される「distance」も楽しみ。)
モーニングだけというのはいい映画だっただけに寂しいが、アルツハイマー症を扱っているけれど福祉啓発映画ではないので、暖かい物語で安心の涙を流したい人向けではなく、それはそれで仕方がないのかも知れない。

原作は近藤ようこ。たまたま1冊彼女の歴史物の漫画をつい最近読んだところだった。原作が昔の母と自分(娘)のシーンに自然と飛ぶので、時間を飛んだりすることはしない松岡監督だけれど、この映画ではそういう映画手法も自然と取り入れている。母親が娘を感情的に叱咤しているシーンが、現在、娘である主人公が、呆けた母親と組み合うシーンの直後に挿入されるわけだ。

回顧と言うより、その過去が現在と代わらない重さで迫る。全体は淡々としたタッチで綴られている。小学校の教頭までなった母親かな子役に渡辺美佐子、主人公のみな子の一人娘美和子に夏川結衣。

母親が複雑骨折して自宅で仕事をしたいと、美和子が編集社に対しても嘘をつくシーンは、原作の漫画ではない。冷蔵庫の中にビールしか入っていないかな子のアルコール依存症的設定も映画独自のものである。
また、映画は原作では始まっていなかった介護保険制度が始まった時に作られているから、少しそのあたりにも言及している。

印象的なシーンは色々あるが、夜に美和子がテープおこしをパソコンでしていると、母かな子がうるさいと言いに来る時はその出口のなさに心が締め付けられた。

感情だけが比較的に残るアルツハイマー症の残酷さ。でも、かな子は呆けることでいままでのかたくなさを取り去っていく。それは娘にとってはきっと救いだ。かな子自身にとっても、それは残酷と言われても、きっと悪いことではないのではないだろうか。

小さいときそういえば私の娘がティッシュを引き出すのが面白くて、いつも一人にしておくと鼻紙だらけにしてくれていた。テープはすべて引き出され、本はすべて床に散乱していた。そんな遊びを、いまかな子は呆けることでやり直しているように見える。

アカシアの花を、これは「ニセアカシア」だと娘に教える教師としての母の姿はそこにはない(知識は正確じゃなくちゃ。・・あんたって感傷的ね)。雪と花の白さと軽さを、ただ隣にいる人に伝えているだけだ。

幸いなことに(と言っていいか分からないが)、息子を持たないので父親と息子の確執については経験がない。娘だったことが(私のためには)よかったのか、二人とも私を何度も殺したいと思ったそうだが、殺されはせずに生き延びている。わがままで自分の思うとおりに娘がならないとかなり暴力を振るった私だから、殺されても仕方がなかったのかも知れない。

でも、いまになってどれほど娘たちに押しつけないで話を聞こうとしても、かつて幼児ドリルがどうしてこうもできないものかと冊子を投げつけぶったり、ピアノの先生の家に連れて行くてまえ上手に仕上がっていないとこちらが恥ずかしいので、無理やりピアノの前に座らせ、手を叩いたという記憶は、私よりも彼女の方がずっと強く残っている。もう到底消せない事実だ。

アトピーで指が痛くてピアノも鉛筆も持つことさえ苦痛だった娘をどうしてあんな風にしたのだろうかと、いまさら反省などしても、きっとはなはそうして最後まで私のヒステリーのことを忘れないだろうし、さきだってそういう暴力的な私の姿にカーテンの影でおびえていたことをけして忘れはしないのだろう。

この映画を観て、帰りにbook offに寄り、原作の『アカシアの道』(近藤ようこ、双葉社、96.4)を買って家で3人で読んだ。はなはやっぱり色々思い出した様子だ。でも、ぽつんと「いまはお父さんにすぐ嫌なことは嫌というようにしているから」と呟いて自分の部屋に行った。いつか、私が呆けてはなかさきに介護してもらう日が来るのだろう、そのときに、手をつないでもらう自分がいるかどうか・・・ちょっと感傷的になって早く寝た。


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