Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Czecho animation & Willow and Wind
映画館で映画を観ていないなあと思っていたので、京都みなみ会館にて、17:25から始まった『チェコアニメ映画祭2000』Aプロ(77分)を楽しむ。関西ではここでずっと上映されてきているもののようだ。
始まりは、ヤロスラフ・ザフラドニーク監督『粘土』(1972年、4分)。彫刻のために粘土で女性のトルソーを作っている彫刻家の男。びんぼうそうだ。余った粘土のかたまり。そのかたまりがしゅるしゅると小人に変化する。こんな小人など無視していると男が足を痛めて。
小人は撫でてやる。男はその余った粘土を邪見にするのをやめ、女のトルソーの胸にして完成。実写とアニメとの組み合わせ。
ルボミール・ベネシュ監督『パットとマット』シリーズ3作。「へま(76年、7分)」パットがマットを食事に誘う話。水道を壊して水浸しにしたり、せっかく焼いた鳥も吸い込まれてしまって。ほんとへまばかり。卵から雛になるのを鳥かごかぶせて待つ二人。
「芝刈り機(90年、7分)」。これも芝刈り機を壊して、どんどん連鎖状に破壊が拡大していく。でも最後にハサミをセットした手作りの芝刈り機になるところが、にくい。
破局への単線経路でない所がミソ。
同じく「ガレージドア(92年、8分)」もそうだ。間抜けなカーテンに錠前という落ちなのだが、失敗する繰り返しの心憎いテンポと、二人ののほほんとした人形すがたがばかばかしくならない一歩手前の所をキープしている。
後半はどちらもブジェチスラフ・ポヤル監督のアニメ。『ぼくらと遊ぼう』シリーズ2作。「冬眠の話(67年、13分)」。小くまの二人のコンビのシリーズだ。一方がすぐに寝てしまって遊びにならない。冬が近づいているからだ。鬼ごっこしても鬼の方が寝てしまう。なかなか寝ないごんたの子どもに見せたいもの。でも説教ものではない。ペンギンとかいろいろ出てくる。
何だかへんてこなかわいさ(普通な感覚ではあんまり可愛くない部類かも)。
次は「ヒョウの話(71年、19分)」。これはヒョウの女性に一方の小くまが心奪われて、もう一方の小くまが寂しがる話。結局、二人一緒が一番となるわけだが。
ラストはこのポヤル監督の『飲みすぎた一杯』(53年、19分)。これも「ヒョウの話」と同じく、子ども向きではない。結末も淋しいし、闇の中をオートバイで飛ばしていく男の顔、その男が握りしめていた女の顔も同じく哀愁に満ちている。女は、結婚式の最中だったにもかかわらずに、そんな風に見える。恥ずかしくて目を伏せていただけかも知れないが。
酒を飲んで運転してはいけないと表示もあった。でもつい勧められ深酒に。すっとばす道行きは、スピードと暴走、命への軽視に目眩が起きそうだ。カタツムリが2匹、ゆっくり道を歩んでいた冒頭が、最後の彼の破滅を際だたせる。もちろん教訓的ではないのだが、暗く幻想的で、汽車と一緒に併走するシーンは心にぐっとくるもの。
続けて同じく京都みなみ会館で、イラン・日本(NHK)映画『柳と風
Willow and Wind』(85分、1999)を見る。モハマド・アリ・タレビ監督。
タレビ監督は、アッバス・キアロスタミ脚本独特の、「子どもの不安とそれでも生きる力のすがすがしさを浮かび上がらせる」透明な目線を壊さず美しい画面を作ることに成功している。
疲れて樹の洞に入ってガラスに守られてうたた寝をするシーン。風の強い外の景色がぼやけて、ガラスに引っ付いた葉っぱのかもし出す模様だけが浮き出すシーンはひとときの夢のように淡い。
ただ「友だちのうちはどこ?」の続編というだけあって、少し大きくなった小学生クーチェキが、自分が壊した窓ガラスを自分で運ぶまでの困難をこれでもかこれでもかと単純に描いていくのを観ると、どうしてもオリジナルのキアロスタミ映画と比較してしまう。縦に伸びていく独特の道のつづれ折りの風景もちょっぴり登場するから、その効果も計算に入っているのだろう。
主人公がガラスに挟む教科書(ノートかな)の使い方もやっぱり響き合っている。大人に近づいている分、階層の違いが現実的なつらさとなって現れる。終わりもほろ苦い。
主人公も転校生(彼がお金を貸してくれる)の少年もあか抜けた顔をしていて、ちょっとタレントぽく。
イランの子どもを映画で観て日本と比較すると不思議で仕方ないのは、子どもたちが、びんぼうでも学校には絶対に行きたい!と切に思っていることだ。転校生(途中から姿を見せなくなってしまう)のお父さんのように学校を出てエンジニアになって、楽な暮らしをしたいと考えていないわけではないだろうが、そんなのではなく、実に純粋に学校での生活を大切にしている。
このなかに出てくる教師も子ども思いというわけではない。気むずかしかったりする。
ガラスを修理しないともう学校には来ては行けませんなんて、主人公の親の収入のことを考えればどうして彼がガラスを入れれないのか、すぐにも想像することができるはずだ。
ただ、転校生が雨を見ていて、彼を外に出すという罰を下してから、でも雨を見るのもいいですね、なんて少し幅のある教師であることを演技してみせるあたりは、昔のキアロスタミ映画に出てくる先生よりは物わかりがよくなっているように思えた。
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