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12/6(月)
映画『白痴』とその記録本『映画が街にやってきた』

映画よりさきに本を読んだ。「白痴」の記録編纂委員会『映画が街にやってきた』--「白痴」制作/新潟の2000日物語--(新潟日報事業社、99.10)。

「HAKUCHI通信」の編集長で、映画の最後には『映画「白痴」を成功させる会』としてクレジットされる宮川直子さんから送られていたからだ。

帯のことばは「あなたは映画の力を信じるか」そして:<<なぜ新潟で映画を撮るのか、協力を求められた一人ひとりにその答えはゆだねられていた。映画を撮るということは、自分にとってどういうことなのか。「地域への文化的な波及効果」ということは果たしてあるのか、そもそも何かを変える力を持つのか。映画「白痴」は新潟に、ある日突然舞い降りてきた「問い掛け」である。>>

本文の最後にある『映画「白痴」を成功させる会』の矢部孝男(準備室専従だった)の未来への思いが彼なりの一つの答えだろう。<<矢部には夢がある。県内のいろいろな場所で、いろいろな年代が映画・映像を撮り始め、語り始める。その中から才能のある人間が現れ、みんなが映画を撮らせようと立ち上がる。県民、企業、もちろん行政も応援して「新潟発の映画」をつくる。・・『白痴』から映画塾が始まり、映画塾からさまざまな作品が羽ばたく。映画の力は連鎖反応だ。映画は、映画を生

む。>>

地元の俳優(エキストラだけではない)、ボランティア、そして中断などの苦労を一手に引き受けたスタッフ達。映画十字軍として全国から来た若者。お金の集まらないイライラ、群馬県産映画「眠る男」とは状況が、時代が全く違う。個人的には製作の苦労を知ったこともあるけど、ずっと映画「白痴」の方が好きだ。

焼け跡づくり、爆破シーンなどを予め本を読んで知っていたことで、映画を見たときに、とても立体的/四次元的に楽しめたと思う。

映画そのものだけでなく、映画製作の模様を知る効果は相乗的なものである。また本には主役達はほとんど登場しない。地元の裏方達中心に語られるドキュメンタリーだから映画自体は新鮮なままだったわけだ。実際の映画で初めて感じる大迫力(CGなどではやっぱり味わえないロケの力)ももちろん凄い。

これがメイキングフィルムではない、映画と地域の関係を伝えるドキュメンタリー冊子の面白さだろう。家畜飼育係はあの庭の鶏や豚たちを飼っていたのだなあ、とか、焼け跡を行進する人たちの暑い夏の一日の長時間の待機を思ったりする。

さて、京都朝日シネマ1。40人弱ぐらいか。アベックや女性二人、男一人。若い人が多い。浅野忠信のファン層は、変幻自在ながらシンは重く強いこの映画をどう受け止めただろう。

私は明日の親父の肺手術のことを思いだし、戦争に行った親父や、店を空襲で焼かれた祖母のことをどうしてもダブらせて観て、泪までは出ないが、心詰まる感じにはなる。邦画では珍しく、帰りの風景が映画の影響で奇妙に歪んで仕方がなく、通りすがりの人たちが無縁とは感じられない。

『白痴』監督/脚本:手塚眞、原作:坂口安吾。主人公伊沢が近未来的なテレビ局に勤める風刺的突飛さはあるけれど、思ったより原作を大切にしている。146分、1999年。製作/手塚プロダクション。8ミリから35ミリ、モノクロ、カラー、ビデオ、CGなど様々な映像。

あらすじの前半部分(有料パンフレットの引用):

<<過去とも未来とも思える終末戦争下の日本。/映画製作を志す伊沢(浅野忠信)は歪んだ長屋が並ぶ場末の路地裏に間借りをしている。/娼婦やスリ、大陸浪人たちが自堕落な生活を送る路地で、隣に住む木枯(草刈正雄)とその妻、/白痴のサヨ(甲田益也子)の自然な生き方に、伊沢は人間らしさを見いだしていた。/テレビ局「メディアステーション」にアシスタントディレクターとして勤めている伊沢は、戦意高揚番組と安直な歌謡番組ばかりの仕事に辟易としている。/現場は、視聴率70%を誇るカリスマ的アイドル、銀河(橋本麗香)のサディスティックな言動に振り回されていた。・・・>>

いまさら安吾の世界を敗戦直後のシーンだけで扱うのは陳腐だから、こんな醜悪で軽薄なマスメディアの世界を対比するのかと、初め、この人工極まりない部分の映像を見ていた。でも、銀河がサロメのように、伊沢の首をほしいと願ったりするようになって、サヨとの場末の堕落しきった世界における汚れなき世界と十分に拮抗する、もう一つの現実世界として観れるようになった。

銀河の過去は、伊沢だけになったときに明かされた。・・日本人でない父親が多くの日本人のリンチによって殺されようとしている。母親と小さな銀河は、この人はお前たちの家族かと聞かれる。肯定はできない。死ぬことを覚悟した父親の目。その目を思い出させる伊沢の目が憎く怖い。

銀河を偶像化するこのテレビ局を、天皇制とダブらせて見ていた。悲惨な空襲下の市民と安全な皇居や高級軍部の生活。ふと「笑っていいとも」の番組の合間に流れるCMがこの映像にとても似ていることに気づく。でも、焼け跡にあるテレビの像は白黒で「はかなく」歪んで。アジアの隅々にまで行き渡るコマーシャルを想起させる。テレビ局が中国語とバイリンガルなのも、レストランがアジアミックスなのも十分に深い。

監督の父親、手塚治虫の初期の戦争の漫画のことや火の鳥などを連想する人は多いだろう。希望を捨てない熱さとか、日本的なうち向きの情緒に流されない所に特にその継承性を私は感じる。<善と悪><虚偽と真実><繁栄と悲惨>など白黒のはっきりした対比(2つの世界のコントラストの割り切り)も似ているようにも思う。でも、もちろん、いまの時代に生きる手塚眞だからこそ、撮れる映像でもある。

いま一番気になるのは、新潟で出演した人たちやその背後で美術装置の仕事に追われた人たち、ロケを目撃した新潟人などによるこの映画の感想と評価だ。


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