Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Hitori-Shibai&Tomato-To

105.

7/20(木.休日)

北岡啓孝一人芝居『VILLA VILLA』& 二口大学・松本エリハ『トマトと、』

今日、1時間弱のお芝居を2つ観た。夏は少し身体もしんどいので短めの公演の方があっている、少なくとも私には。

心斎橋ウィングフィールドにて、PRIMITIVE COOL第一回公演『VILLA VILLA〜make mesad〜』作・演出/石塚博章(Blue,Blue.)。13:36〜14:30。北岡啓孝(199Q太陽族)一人芝居。

一人芝居というやつは、純粋な独白(モノローグ)ではなかなか持たないことが多く、ここでも二役を演じ、嫌な刑事役になったりする。相手は見えないけれど、その見えない相手と会話をすることを通じて出来事(事件)を展開していくことになるので相手のことばを繰り返したりすることが多くなる。
また、テープを使うこともあるし、今回のようにラジオのDJが演出上イヤホンで聴いている主人公の耳から漏れて聴こえることもあるわけだ。

つまり、一人芝居という様式は、複数の芝居よりも「嘘ごと」(約束ごと)が多いという特徴があって、それにどう反応するかによって好き嫌いが分かれる。私はどちらかというと「型にはまった嘘っぽさ」は不得意なので、しんどいほうだ。

今回も例外ではなかった。が、始まる前からいた黒い像と化した看板持ちに、なぜか惹かれるものがあった。そして、冒頭は二人芝居になっているわけだ(それは本編ではなく、主人公には記憶にない別の世界の出来事であることにはなるが)。

その時に浴衣を羽織った無差別毒殺殺人者(北岡啓孝が縁日で売っているお面を被って踊り歌う)が、観客だけには提示されているという構造である。謎解き風なのが、シュールな方向へこの芝居を向かわすのを止めてしまっているけれど、これは、そういう作品であるから、私は分かりやすく、安心して見れたという面ではよかった。

スケベ看板を持った立ちんぼ。彼が草臥れた年配の男ではなくリストラされた若い男であるところが、今日的な所だろう。まだ妻には話していない。彼女の誕生日すら忘れてしまっている。殺人現場にいながら、その時を憶えていない。冒頭のシーンを解釈すれば、犯人にガスをかけられ声明文を渡されて気絶したようだが、彼には身体に異常は起きていないので、結局よく分からない点だ。

誰が犯人なのか、声明文の筆跡は自分のもののようだが、それをとり出そうとすると(どこにいったのか)なかったりする。やっぱり何が何だか分からない糞暑い一日。確実に分かるのは、会社の看板で営業マンとしてしゃにむに働いていた男が、いいように使われ自主退職させられ、会社の看板をなくして、立て看板を持って一日中立っている、という前提だけだ。看板持ちの男にはどんな個性も人は感じず、それは会社という看板を持っていた時と実は何も変わっていないのだ、哀しいことに。

ただ、会社の看板を持っている時の方が、社会の反応がいい、という違いがあるだけである。喫茶店のウェートレスの看板や昔懐かしい「たばこ」の看板など、舞台(石橋和也)は丁寧に作っていた。

阪から京都へ。西陣ファクトリーGarden。19:01〜19:55。

二口大学・松本エリハ第2回公演『トマトと、』作/鈴江俊郎。桃田のんは演出のお手伝い。演出そのものは出演者3人(二口大学・松本エリハ・きむらかずや)による。

美術(きむらかずや演じるウェーターによって吊された巨大トマトなどかな)・照明デザイン/岩村原太(今日は、清流劇場の照明に行っている)。舞台空間は暑そうだったが(テーブルの前の二口の汗はすごかった)、一つの扇風機が私の方に向いているため、まずますしのげる時間であった。

作品が、かなり細かく暗転する。

二人が出会った始まり(将棋をすることで、女をくどくってまあ、珍しい)と、付き合ってから1か月後のシーン(女が男の絵のモデルになるが・・・)が中に挿入されたりする。が、基本的にはシンプルな構造のお芝居である。

テーブルに向かう二人。ただ、椅子に座る二つの場所が途中で逆転するときが、過去の2つのシーンという区別になっている。

男、山本(二口大学)の家のそばの喫茶店。テーブルがぽつんとある。暇そうな所だ。

まず、バック(中にトマトが入っているとは想像できなかった)を持って女、中島(松本エリハ)が入ってくる。

いつもは男の部屋に行くのになぜここなんだろう?ウェーター(きむらかずや:彼は始まる前にお茶のサービスをしていたし、前説もしていた)が水の一杯入ったコップを運んでいる。女に持ってくるのもなみなみ入ったコップの水。ずっと注文を聞けないで帰られてしまう、気の弱いウェーターは、舞台上と観客をつなぐ狂言回し(脇)の役を演じている。

鈴江俊郎らしい、冒頭の独白。

両手に余るトマト。赤いトマト。水がいっぱい入っている。女が妊娠していたかどうかを聞く男。怒っている?って聞いて怒っていないという時は、いつも女は怒っている。いや、そう聞かれると自分が怒っていることに気づいてしまって怒る気持ちが顕在化すると言った方がいいか。

トマトは実存主義だ。おお「主義」(鈴江作品にはよく登場するキーワードだ)。でも今回は「実存」=「実に有る」という不在の存在感、未定の実在感についてが眼目である。
子どもにはきっと生々しい実存感があるが、男と女の二人には未来への実感がない。
「だから産む」と。男は初めそれは無理だと拒む。売れない絵描きだから。そして、堅気にはならないから。それでもいいと女、女の方が落ちついてくる。

雨が上がってもずっと傘を続けて、涙が流れてもそのまま歩いて産婦人科へ行ったから、男よりも感情は先に静まる。激しい感情を表すのは、冒頭の女の水の飲みっぷり。
逆に、途中から男が水を一気に飲み出す。
つまり、男もその「トマト」の実在感(についての逡巡)へと向かいだしたからだ。
絵描きのままで子どもが存在する、その生々しさと、赤さ、転がる丸さに響きだした男。

どうして、今日は自分の部屋に女をはじめ入れなかったのか。それは、男がその絵に「感謝したいような」そんな絵が生まれたからだ。それを見せる決断について。それは、女が子どもを下ろさずに育てる決断と融合する。それを象徴する玄関の一杯のトマト。女が鞄に持っていた1個のトマト。ま、ここは象徴主義とかシュールリアリズムなのでしょうか。

かりに「象徴主義」っていってしまいましょうか。でもね、じゃあ二人が初めて会ったときから、部屋の片隅(たまたま私の目の前に吊された)に浮かんでいた巨大トマトって何だったんだろう。うーん。象徴したり解釈したりするものよりも、大きく、直接的な感触。やっぱり実存なのかなあ。

説明する言葉と、説明できない直接性。お芝居って、ダンス(身体の直接的な提示が強い)よりもその二つの間を言ったり来たりするものなのね。

先ほどウィングフィールドで見た一人芝居「Villa,Villa」には、内容についての「解釈」が大手を広げて存在していた。

一方、いま見たこの作品には、説明できない言葉とその直接的な提示が強く出ていた。でも、シチュエーションの説明は会話の中から、あるいは、そのいい澱みのニュアンスや声の調子(どなってしまう男)からにじみでてくるので、十分理解できる範囲ではあった。

野口英生の比喩も、やけどをした開かれない手のひらが、トマトを包む手と重なり。
ウェイターが先にトマトを吊しながら歌うものにも、味があった。
「いつの日にか、君に会えると・・・」。

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