Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Hora-Sora-Goran

44. 

1/10(休日.ソワレ)
南船北馬一団『ほら そら ごらん』應典院本堂ホール(大阪市天王寺区)

97年4月にオープンした、大阪市天王寺区の應典院本堂ホール。宗教、宗派にこだわらず「開かれた寺」をめざすとともに、大阪のNPO活動の拠点にもなっている場所だ。先行する近くの一心寺シアター(最近ご無沙汰)、平野の全興寺などの宗教空間とともに、ここ應典院が、芸術を楽しむ者にとっても大阪の大切な場所としてお馴染みになりつつある。

京都でも、お寺さんによる芸術支援を含む社会活動は、黒谷/永運院や西陣/妙蓮寺、東山/法然院などにおいて住職の熱意とセンスで継続されている。関西の芸術環境の特色やこれからの発展はもともと多くある寺院の活用を抜きにしては考えられないわけだ。

さて、應典院では当初から公演してきた南船北馬一団。SPACE×DRAMA2000「シアトリカル應典院舞台芸術祭」でも、ここが皮切りとなる。私も2000年初観劇です。

『ほら そら ごらん』17:06〜19:36。少し客席は余裕があるけど、定評のある舞台美術(柴田隆弘)に舞台進行(塚本修)、誠実なテーマ探求(作・演出:棚瀬美幸)といささか地味ながら期待は継続して行ける舞台だった。

ただ、実は今回の作品で損をしたな、と思ったのは、去年の劇団八時半作品「黒い空とふたりと」との類似性とか、やっぱり私の好きな三角フラスコの、テーマは暗くとも余り深刻ぶらないテイストなど、共通する雰囲気の劇団が目白押しだからだ。

でも、保育日誌によって日付を確定したり、ある緊張度を増すシーンの直後に音楽を決まって流す演出は、自己内面にこもる作品を見続けているヘビーな鑑賞者にはお手軽に思えるかも知れないが、中間層の開拓には相応しい作品のように思える。

けんいち君が描いただろうお魚の絵だけが、一枚、学童保育「とんぼ第1」の壁から落ちるラスト。テーマは見えやすいが、でも回答を押しつけるほどではない。

「学童保育」に作者の棚瀬美幸は通っていた、という。昔は鍵っ子対策という言葉とともにあったように思う「学童」。家に帰ってもお母さんがいない小学校の子ども達。運営経費はどこから出ていたのだろう、指導員の給料(劇中でも予算が少ないことが話されている)などは、行政の助成(あるとすれば、教育委員会ではなくて児童館を所轄する福祉部局なのだろうなあ)や、保護者からの謝礼によっているのか。

この劇では「とんぼ第1」の施設が立っている用地は無償で提供されていた(最後は立ち退くことになるのだが)から、そういう形での寄付的提供もあったようだ。「とんぼ第1」は、いまは入院している伊藤さん(預かった児童の死が大きな原因になって胃潰瘍から心患いへと。話の中だけで登場)の熱意でこの学童保育を実現した初めての施設。

いまは「とんぼ第3」まで施設があるが、現在指導員になっている渡辺陽子(藤岡悠芙子)や植田由美(谷弘恵、彼女は保育所に正規で採用になってもうすぐやめる)にとっては、児童としてお世話になった施設でもある。壁のくすみ具合が時の経過をよく表している。應典院の横に長い空間を意識してべたっと作らずに、上手が近くて出入口(2箇所ある)のある下手が遠くになるように、遠近法で壁を拵えてある。上手の奧は台所。家庭の替わりを果たすように、ナイフやフォークがしまわれている。

“魚は目を開けて死んでいる、きっと食べられる所まで見ようとしているんだね”と書いたしんいち君の詩は読まれるし、壁には児童の絵画が貼られているけれど、この舞台には児童は誰も登場しない。その父母とともに電話の向こうだったりするだけだ。

冒頭から登場する中田ひとみ(中村美保:劇団八時半)が結婚を決意するけんいち君のお父さん。彼が、まさに引っ越しの荷物を取りに来る直前でお芝居は終わる。

従って、学童保育の指導員達7人の20代前半から後半までの姿を活写した群像的な舞台と言える。その中で、どれほど彼ら彼女らと繋がっている外の世界が、彼ら彼女ら内部の微妙な感情関係とともに描かれるかが挑戦課題なのだと見ながら思う。

感情関係は、大きくは2つ。

中田ひろみと2年間「とんぼ第1」で仕事をして恋愛関係にあった松田(池田幸巨:スクエア)。その松田のいまの彼女で、「とんぼ第1」に手伝いに入る百瀬(片桐慎和子:元ププラモーチカ)。この3人の関係、特に百瀬と中田との感情。百瀬の林檎剥きと指からの赤い血、それを林檎につけて食べるシーンが一つのクライマックス。百瀬の方が、松田との関係を探るために中田と一緒に仕事をしたがっていたようなのだとこのシーンを見て初めて思った。

もう一つは、小さいときから学校で孤立しいじめられがちだった渡辺の存在。何かの起きる予兆を、人一倍強く察知してしまう。まるで低気圧が近づくとアトピーになる敏感肌のようだ。同級生だった植田が小学校では冷たかった(学童では仲良し)話を聞いていて、でももし植田が渡辺をかばったら、同じようにいじめられ、ヘタをすると渡辺の方がいじめっこ側にたつことだってありうる、という現実がふと頭をよぎったりする。クライマックスはもう「とんぼ第1」には来ない、とドアをばたんと強く締めて渡辺が出て行くところ。

あと、渡辺によって結婚した指導員二人(末廣一光、熊崎さくら)の関係(男の方がどうも弱く、女は現実的で渡辺にはデリカシーがないように感じる)を見て渡辺がいらついて男にぶしつけに聞いたりする。普通は夫婦間のことはこうして面と向かって聞かないものだ。つまり、児童はいないと言ったが、外で自転車を漕ぐ渡辺は、まだ指導員の部屋に入りきれない心の児童性(保護の必要性)を特に強く持ったまま存在している。

中田はけんいち君だけのお母さんになって「とんぼ第1」のお母さんをやめてしまうのねと批判する渡辺。つまり「とんぼ第1」(それは渡辺の拠り所でもある)自体の不在に渡辺は耐えられないのだ。一方、中田は松田に指導員を続けるように(それはけんいち君のお父さんと結婚しないことに繋がるのなら、松田と彼女との関係を取り戻すことになる、ということだろうかとも思えるが)言って欲しかった、と松田の足首を捕まえて告白するシーンがある。群像劇と初め書いたが、中田を軸とする劇のように最後はなってきている(そこは少しとらえにくい部分だった)。


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