Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Jareo-Terada danceduo
《さて今回は、昨年から私達のワークショップに参加してくれていた上田リナさんとその御主人であるデイヴィッドに、様々な内容についてインタビューに応じてもらい、彼らと時間を過ごす中で私達なりに感じた事から、作品を創ってみようと思いました。私達はインタビューを通して、彼らの中に何か特別なものを求めたり、真理や本質などを見いだそうとした訳ではありません。結局のところ、彼らの何を理解できたのかさえ、よくはわからないのです。ただ、そんな無意味かもしれない行為こそを、大切にしたいと思うのです。
《今秋(11月14・15日)、大阪のトリイホールに於いて、以前から計画していた照明家・吉本有輝子さんとのコラボレーションが、ようやく実現する事になり、今回はその練習公演として、急遽行う事になったものです。・・・》
舞台美術は二つの椅子だけ。いや下手手前、冒頭と間と最後に、赤いシャツ同士の上田リナとデイヴィッド・ボニッチャが抱き合う姿が、ダンスの一つというよりも、踊られるものの「きっかけ」、あるいは前景のように配置されている。
音響(秋山雅近)の中には、二人がインタビューしたと思われるリナとデイヴィッドの声あるいはたぶんリナがうたう歌(雨が雨が降っている、きいてごらんよ雨の音・・)、笑い声などが入っていて、言葉は日本語でない所は意味は通じないし、ダンスを見ていると日本語でも意味を確認しないで聴いていることもある。
交流し合う時間的な経緯を音の記録として提示するのは、客席にいた山下残/かなもりゆうこらとも共通するもの。ただ、歌曲とコラージュになっていたりして、より断片的な(抽象的な)扱いだ。
ねこがね・・町のサウンドスケープが聴こえる。砂連尾理と寺田美砂子が並んで椅子に座っている。手を顔の方に持ってきたりするだけの動作が断続的に行われる。寺田は座席に足を載せているがそのうち下に置く。
抱き合う二人のダンス的な表現なのかとも思う。あるいは、その抱き合う二人と交流してきたことで新たに砂連尾と寺田に生じた感情の動きや過ごした時間の堆積。それを踊りにしたものかも知れない。
下手奧上からの赤い照明の中で砂連尾理が踊る。リズミカルな音楽、踊りも弾む。ぐるぐるぐる。軽快なのにどこか泣きそうな心の奥の気持ちが、ふいとやってきそうな予感もある。
砂連尾と寺田のデュオ。照明は後ろに大きく影を映すもの。初めて二人は触れあい、コンタクトする。
一番印象的だったのは、シャツを引っ張る所から始まる、バロック音楽によるデュオ。ユニゾンによる部分が続くと思うと、それがフーガとかカノンのようにずれて、またユニゾンに戻る。対位法のようなダンス。ただそれぞれのシークエンスが日常的な仕草によって構成されている所が好きだ。野菜や果物で人の顔を描いた昔の人の絵画を連想する。
ボーリング場での騒音での椅子に座ったデュオもあった。これはあえて美しくなく構成しているように見えた。
寺田美砂子の赤い明かりのソロ。砂連尾理と同じ場に彼女が立つと、やはり彼女らしい端正なダンス(伸び上がるときバレエ的な天上性も感じられる)になる。
横からの光が強いと影が斑模様になったりするのも面白い。照明は同じく後ろに影を映すのでも、床からの明かりと遠く客席後ろの照明によるのではもちろん大きな違いが出る。
デュオがまたあるが、少し強くなる。でも、カタルシスになる(めくるめく陶酔する)ことはない。ただ、ラストにまた繰り返される椅子のダンスは大きく脚を開いたデュオになっていて。
生活というもの(=人との相互行為)が、同じ事を繰り返すようだけれど、いつも微妙に変化していく。それはあたかも終わりなき変奏曲のように、続いていく。そんなことを言っているように感じさせてくれる公演だった。
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