Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》KANAMORI YUKO/SOWAKA

216.
5/8(火)
『かなもりゆうこ展〜美術の時間』ギャラリーそわか

やっと「P.A.N.PRESS vol.33」が発行された。原稿を昨年末に書いた「踊りまわり(3)〜リボンと童話」のコラムが年度を超えて載っている。そこに、岡山のデビットホールでのかなもりゆうこ展のこと(つき山いくよが読んだ、トーン・テレヘンの「誰も死なない」のこと)を書いたが、その展覧会が再び映像の撮影場所、京都で開かれた。

『かなもりゆうこ展〜美術の時間』、ギャラリーそわか。入ったところの部屋には写真が6枚一組などで展示されている。ビデオ(90分の大作だ)の1シーンなのだろうけれど、その色彩の統一感はやっぱり美術家だなあと思う。動いていても、止まっていても構成のきちんとしているところは変わりない。

2階にも写真がある。地下の部屋にはスライドショーになっていて、スティール写真が自動的に映されている。少しコンピュータ加工があって、ビデオ作品の予告版みたいでもあるが、暗いところでそっと見るもう一つの作品ということでもあるのかも知れない。

奥の部屋がメイン会場で、1日に4回上映される(途中で一度ビデオカセットの入れ替えがあるが、これは単なる技術的なことだろう)。
90分全体が交響曲のように統一された構成になっているというのではないが、エピソードごとの組曲のような感じで構成されている。ただ、登場人物は共通だし、初めと終わりの河原の風景などは円環になっているから1回性を強調するものではない。

なによりも、画面に登場しないかなもりゆうこがカメラの背後にいて、映っている人たちを見守っていることが、彼女たちの仕草や表情、ゆったりとしかもお茶目なこころ持ちから、自ずと伝わってくるのが印象的だ。

ダンスや歌の練習風景が多いけれど、かなもりゆうこがいることがまったく邪魔になっていない。いや、彼女がいない自動記録装置よりも、「あ、すてきすてき」と呟くように目が言って小さく手を合わせている彼女がいてくれている方が、みんなはカメラを感じつつもリラックスしていると言えるかも知れない。
それはひとえに長い間の友人づきあいのたまものである。

特にとざきまなみちゃんの成長は当たり前だが目を見張らせる。納谷衣美さんに背丈が追いついてきているのだ。それでももちろん、その純な可愛らしさは変わらない。
この頃になると恥ずかしさや屁理屈も言うようになると思うけど、そこにじっくりと紡いできた時間の共有がこの暖かい映像を生んだのだろう。

古川千晶さんの透明な歌。少し夕暮れの川辺が似合う声、ホタルが迷い込んだりするような。
千晶さんがまなみちゃんと掛け合いで歌うとき(交互に歌う時の歌い出す前の「間」も大切に保存されている)、その声質の違いが何とも微妙な感じを与える。

みんな少女なのよという安易なひとくくりでいかないまなみちゃんから千晶さんまでのながい道のりのこと〜一見平穏かも知れないけれど〜、を少し思ったりする。

逆につき山いくよさんとまなみちゃんのダンス風景では、時にまなみちゃんの方がお姉さんみたいに錯覚したりもする。一筋縄ではいかない少女たち。チャッチャッチャのかわいく懐メロチックなレコード。いつもその選曲に意外感を与えてもらったり、唸らされたりする。

つきちゃんは何せ一人遊びの名人だ〜二人でカーテンを使った遊びもあったが〜。
指の爪で結婚ごっこをして、大爆笑のパレードを挙行する。
風船にもメッセージがあった。
「たからもの」「花のある人生」・・風船をもつ着物姿のいくよさん。

「あ」と「うん」の衣装も彼女っぽい。帽子はやっぱり中国やベトナムを意識しているのかしら(ぼくはどうしてもゴダールの映画を思い出す)。「だれも死なない」の朗読は実に淡々と映されていた。でも、あのカメは(大声で叫んでしまった「すごかったね」の主人公)、翌日みんなとどんな挨拶をしたのだろう。

納谷ちゃんのダンスは穏やかで堅実だ(土曜日にまた見たら、こんどは彼女のソロの即興が新鮮に見えた。もちろんつき山さんとのデュオのなかで、ばたっと床に二人が倒れるところもどきっとする)。
まなみちゃんとの交流も爆発的におどけたりはしない。ピアノもうまいんだなあ。きちんとした伴奏。何度でも確実にまなみちゃん(外国語をよく覚えているものだ)の歌を支えている。
ふとまなみちゃんのお兄ちゃんはいまごろどうしているのかな、と思った。山下残君は「BT」5月号に出たり作品を考えたりしているのだろうけれど。


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