Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》KINAKO PAN NEECHAN

245.
7/19(木)
清流劇場『きなこぱんネエちゃんの恋』OMS

行く途中の公園でOMSの場所を聞かれた。気がつかずに通り過ぎた二人の女性。同じ会社の同僚がお芝居に出るので花束を持って初めてきたのだ。
扇町ミュージアムスクエア。汗を吹き出しながらHさんが最近とても不幸な出来事が重なったと話している。見終わり帰路に着く頃には、きっとHさんの心の重さもちょっと軽くなっているはず・・そんなことを思わせてくれる舞台だった。

清流劇場『きなこぱんネエちゃんの恋』、作・演出/田中考弥。19:35〜20:58。田中のモチーフの基調にあるのは、川や海を隔てた別の国、違う思想を持つ人間の間の葛藤である。

彼が初めての恋愛劇を書くためには、そこへ七夕の伝説を追加することが有効だったようだ。ただ、民族やイデオロギーの違いによる悲喜劇は新新宗教の世界との関係など、別の「ディスコミュニケーション」(交通遮断)の問題をも考えさせてくれるものでもある。

いつになく清澄な展開の中、涙が目だけでなく頭や心からもしみ出してくるようなラストを迎えてゆく。
キナコはん(船戸香里)はオジやん(はしぐちしん)と古着を集めて、防波堤のそばの繊維工場へ売って暮らしている。とても貧しい。遠い国へ行った女からの手紙を拾って読むキナコ。織り姫だった和子(武資子)が、牛さん(森崎正弘)へ送った手紙だ。

この二人はお芝居の中では進行役であり(微妙に劇中に入るのだがトーンが違っている)、七夕伝説が中国からやってきたこと(朝鮮半島はどうなのだろう?)、日本では古来、この日は雨が降った方が豊作だと信じられていることを話す。

すべて、劇中に起こることについての暗示であり、この世界が虚構であることを自己言及する装置である。「ファンになった和子ネエちゃんの恋」とキナコはんがこの芝居のタイトルの正当性(?)をわざわざ観客に話すのもおかしい。

とはいえ、シリアスなシーンもある。つまり和子はマンションの夫婦を演じている小橋カップル(三上剛、小畑香奈恵)とともに向こうの国の工作員なのである。任務は「周輝夫」と偽っている自国からの亡命者を抹殺(オーム真理教なら「ボア」)すること。三人が国歌を歌うシーン、日本人を装う訓練を受けてきたあたりはいつもながらぐっとくる。

ただ、従来の清流劇場ならば、森下浩充や石本伎市郎がはしぐちしんとともに猥雑な毒をまき散らすのだが、今回は恋愛劇なので、森下はポケベル屋の亡霊に追われる猪爪親父のエピソードとして、そして石本は珍妙なボートを発明してそれを工作員に売る羊原「博士」というエピソードで、何とか本筋につながっている。
そのあたりが、ちょっと寂しいと言えば寂しい。それは欲張りな感想かも知れないが。

福井県あたりの繊維の町が舞台なのだろう。
朝鮮半島からはいつも亡命船が流れてくるような突堤があって、すでに当事者のほとんどは町工場の将来を見捨てている。ただ恋している「牛さん」はそんなことを考えることもなく、毎日「和子」と仕事をしている。肝心なことは言わない和子。
彼女の律儀な愛の表現がふつうの日本語会話ではなく、工作員として教科書上で習ったものだからこそ、この恋の行方はドラマティックなのだろうと思う。

綿を使った雪祭りをしようという団地の人たちの脳天気さ。その前は、タンスに入りきれなくなった古着をリサイクルして地元企業に貢献するつもりでこの集会場にやってきたのだ。自分勝手で脳天気。まちづくり参加と環境へ優しいライフスタイルを一緒に実現するってか!キナコとオジやんの仕事はどないなるねん。

おっと、あひるさんの童話劇のことも書いたらいいかどうか。これもどうお祭りに関係するかと実際にあてはめて考えてみるとちょっとへんてこだった。が、何となく部屋の外での本番が微妙に寂しくて(主人公のルーアンとルーミンを演じる二人は劇中劇の悲恋ではなく、本当の別れの最中だったから)、そのあたりの演出は、すべて恋愛というテーマへと象徴的にシーンを作っていくことが優先されていた結果だと思う。

大阪弁と、時代劇みたいな江戸弁(がってんだ、の羊原博士の娘たちのおどけぶりがかなりいけている)が交錯し、奇妙なコリア語はなかったが、その代わりに外国で習う日本語という独特の言語が使われた。

確かに恋愛劇故にすっきりとはつくられているが、よく考えいくといろいろなファクターが見つけだされて、清流劇場の伏流にある豊かさを今回も楽しむことができる。


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