Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Lachenmann V&K
18:10に地下鉄東西線蹴上駅から京都市国際交流会館のホールに滑り込んだ、セーフ(〜20:48)。すぐに、長身のヘルムート・ラッヘンマンとドイツ語の通訳の岡本和子(日本語の話し方がとても綺麗)が登場して、話し始める。
福井知子(と川島素晴など)が主催の、音楽を聴くことの未知な世界をかいま見させる素晴らしい催しだった。
『Helmut Lachenmann Vortrag & Konzert(レクチャーとコンサート)in Kyoto 2000』〜自作〈Allegro Sostenuto〉を中心に。
もちろん、演奏も息をつめて聴かせてもらったし、話される言葉も深くて興味がつきない内容だった。
前半は、ラッヘンマンの解説と自身のピアノ演奏。
まず、キーワードは「アルペジォarpeggio」。イタリア語辞典を引くと「連急弾奏」と書いてあった。分散和音を弾いたりするときにこの言葉が使われた昔の記憶しかないが、arpa(ハープ)という言葉から派出しているように、ハープのような漣のような音の弾き方なのだろう。
配布資料になかったが、1963年に作られたビーゲンムジーク?という3分ぐらいの短いピアノ曲が演奏される。アルペジォから始まる。高音だけだったのが、低音も。スタッカート。ピアノを鳴らす音と音の間に存在している空気が、あたかも揺れているような音が聴こえてくる。
彼が話すには、知らない曲を聴くというのは、盲人が部屋を知るのと似ている。まず、テーブルや鏡を触ってその配置を知る。それだけではなく、鏡が割れテーブルが濡れていることから、そこでついさっきに、喧嘩が行われたことを認識していく。そこには盲人自身の想像力が加わっているのだ。
ラッヘンマンは、60年代のアバンギャルドの人たちが設けていた「(自己)規制」(=和音を出さない)を破ってきた。響きの追求(残響、ハーモニクス、レゾナンス・・)から新しい、いままで聴いたことのない音楽(「非=音楽」)を作る。
次の「Ein Kinderspiel」(1980、子どもの遊びという意味の7つのピアノ小品集」)は、7つの型を提示してそれぞれを発展させるもの。
童謡はみんな知っている。ピアノをただ勝手に叩くというような家具としての存在もやっぱりみんな馴染だ。では、この童謡と家具としてのピアノを結び付けるとどうなるか。そこに私の創造がある、とラッヘンマン。
18:45〜19:00。童謡「ちょうちょ」が、半音階で、高音部から下りてくる。短いけど、きりりとしているので、自発的に、聴くことに集中する体モードへとスイッチが入る。ペダルの使い方に神経がいっている。低音の鍵盤を音を鳴らさずに押さえている効果もよく見られる。黒鍵と白鍵を右手と左手に振り分ける。
そして、7曲目の、ピアノの最高音(2つをほとんど聞き取れないが、2音)だけのチューンには心底びっくりする。確かに普段は使わないキーだから、チェルニーなどの練習曲に疲れるとよくこのキーとは戯れたものだ。でも、こんなに意識的にここだけを叩いて、残響音「リーン」「ミーン」という音を聴いたのは初めてのような気がする。解説にあるようにタッタタッタという打鍵によって生まれる「影の踊り」がたとえば高松次郎の影の絵画を思い出させるのも愉快。
・・・どうしたら、このピアノという楽器を、自分の創造の「おもちゃ」に出来るのか、ハイハイする赤ちゃんの好奇心を再び持とうとしているのだ。「ハーモニクスによる残響」というのは、確かに不思議。音のごちゃっとした塊=「クラスター」の残響を影のように引きずりながら、濁りを漉してしまう「ハーモニクス」。あたかも別の人格になる、やはりそれは誰かの影なのだけれど。
20分の休憩の後、お待ちかね、彼の創造の集大成的な作品、〈Allegro Sostenuto〉(1986/88)を聴く。19:35〜20:08。
演奏に先だって、前半の静かな部分と後半のアルペジォがグリサンドとなる忙しくダイナミックな部分をラッヘンマンの解説によって、少し弾いてみる。
ピアノ/菅原幸子(ダルムシュタットで賞をもらっている現代音楽演奏家)、クラリネット(後半はバスクラリネット)/岡静代(パリ高等音楽院で学んでドイツで活躍の若手)、チェロ/ルーカス・フェルス(岡と同じアンサンブル・リシャージュの創設メンバー)。実は、レクチャー(事前解説)の時に少し弾くのは3人にとってリハーサル的な役割もあるようだ。さらに、実は私たち聴衆にとっても、耳を慣らし構造をかいま見るためのリハーサルになっている。
一番見た目も分かりやすくて愉快に思ったのは、クラリネットの先を持ち上げるようにして、グランドピアノの持ち上げられた反響板に音を吹き付けるシーン。
逆に対極的に神経を砥澄ますのは、息だけでクラリネットの管の中のでこぼこをあたかも触っているかのように聴かせてくれる部分。
ピアノでは、木琴のばちがピアノ線を叩いたり擦るのに使われていた。呼応するチェロの弓の擦り。チェロという楽器も下の方の19世紀には決して擦られなかった部分をギコギコ擦られるし、その活用法は飛躍的に多様化した楽器の一つだ。
楽器間のやりとりは、たとえば、本家どりの和歌と俳句の関係のようにも思えるし、連歌を3人でぐるぐる代わり番こにやっているようにも思えてくる。
あるいは、2色の色が上下にあって、その境に色が微妙に滲んでいるマーク・ロスコの絵画のようにも聴こえてくる。どうしてか、今日は美術の世界へと誘(いざな)われやすいな。
解説にあったように、前半の部分に12秒の沈黙がある。確かにここでは、自分の中でこれまでの音が反芻されてとても大切な「間」であると感じる。
後半にも、クラリネットからバスクラリネットに持ちかえるあたりに、ピアノの音だけになる疎らな時間があったのだけれど、ここでも、自分なりの音の「消化作用」をさせてもらった。演奏のさなかに、聴取のフィードバックを可能にするという聴き方はとても参考になる。
幻聴かもしれないが(ラストのところ、水墨画のように一面霧がかかった音の水蒸気のなか)、一片の花びらが、宙を舞い上がる一音を聴いた。それも3つの楽器から同時に、でもそれぞれの響きの色彩で。
演奏後、ラッヘンマンが会場の質問に答える。新しい聴き方を喜びにしてほしい。私は耳を挑発していく。聴き手側の聴く姿勢を新しくしたい。複数の文化の中で驚いてもらいたい。バッハのコラールは当時ライプチッヒのリスナーからは反感を抱かれた。いまでは永遠の力が宿っていると思われるが、バッハはただこつこつと毎日音楽を作っていたにすぎない。1965年、ゲントのスタジオで5ヵ月いて、電子音楽を1曲だけ書いた。でも、スピーカーから流れる音はリスキーでないので、いまは書いていない・・・。
最後にラッヘンマンのモットーを。
1)作曲というのは音楽について思考することだ。
2)作曲というのは自分で一つの楽器を作るのと等しい。楽器は予めあってそれに作曲するのではなく、響きそのもの楽器そのものを創るのだ。
3)創っていくことによって可能性が生じてくるのが作曲だ。決して、予め存在する内なるものを現すものではない。anything
goes(流れに任せるように)のいまの風潮の中で、労作によってのみ可能性が生まれることを私は信じている。
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