Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》MONO&PM/Tobukyoushitsu
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6/11(日)
偶然、二つの芝居とも中国の唄が流れた。マチネは香港、そしてソワレは台湾。一方は喜劇で賑やか(でも最後は哀しい)、他方は涙が知らぬ間に頬を伝う家族愛のお話。
天王寺の近鉄アート館はとても久しぶりだ。奥の方の席に座ると、舞台に少し体がはすかいになっていて、ここ独特の感じが甦ってくる。
MONO第26回公演『錦鯉』15:05〜16:45。作/演出:土田英生。役者としても、日常言語が少しおかしい狭山組のやくざとして登場して、一番笑いを取っていた。
《地方にある港町。すっかりさびれたこの町に、哲学するヤクザ達が住んでいる。「わちらはヤクザだでなあ」「ほんと、ヤクザでなあ」「結局・・・ヤクザだでなあ」自らのアイデンティティをかけて、彼らはやっと立ち上がるのだった。》
錦鯉という標題は、最後の方にこのヤクザの組、赤星組がかっては威勢が良くて、大御殿に錦鯉を飼っていたという話に出てくる。それをうらんで狭山組はこのいまは弱小な赤星組を壊滅してしまおうとしているのだ。
小道具で巧みなのは、オセロゲームと有線放送。この有線チャネル(和んだり元気が出たり音楽でかわる。外国語会話もあって)の切り替えという演技が音響(堂岡俊弘)効果になる演出。
オセロゲームの方は退屈しのぎでやりながら、ヤクザという特別な社会のルールを抜けきれない(一応)悲劇的なラストへとつながる比喩ともなっている。もちろん、ルールを知ってそれを生きる(黒白をつけ、陣地を争い、けじめをつける)ことの興奮や滑稽さが全編を覆っているわけだけど。
赤星組先代が跡継ぎに選んだのは、サラリーマンをしていた水野(奥村泰彦)だった。
若妻裕子(増田記子)は、突然姉(あね)さんと呼ばれるようになる。でもトイレにクマさんを描いたりして、ぼん(赤星の息子/尾方宣久)に仕えるきちんとしたヤクザの坂口(金替康博)に嫌がられている。彼女は最後までヤクザの社会には入らなかった。
水野は組長なのだが、新しいヤクザを目指すといいながら、その世界に入ることをためらっているし、まるで度胸がない。小学校から水野とずっと同じ道を歩んできた吉田(水沼健)が赤星組に入って、ようよう総勢4人。ほんとに零細なヤクザである。
風前の灯火、というか、水野が香港の連中に切り込んで御用となる。水野は面会を拒否。残されたみんなはヤクザから足を洗って(それしかやっていけず)、香港屋台みたいなお店を始めた。意外と順調。香港から留学してきた林アンナ(西野千雅子)の紹介で、アンナのヒモになろうとした水野が結局は仕事を見つけたことになったわけである。
1年経ってムショから出てきた水野は赤星組の家紋がクマさんマークになっていることに驚き愕然となる。彼はムショ入りして、少しヤクザの度胸が出来た気持ちになっていたのである。一寸法師が浦島太郎になって、淋しさが倍増する。
コメディの面白さはこのねじれ/逆転の面白さ。狭山組のヤクザだった小田島(土田英生)やヤクザのけじめを大切にしていたここでは一番強い坂口が赤いお揃いのポロを着ているわけだ。
ラストは、もう一度の逆転。これでは少し宿命論めいてしまわないか(ヤクザはヤクザ)、とも思わないわけでもない。ただ、喜劇よりも悲劇には運命的定めが似合うとしたら、ここだけは悲劇のシッポがついている、と言うことなのかも知れない。
てっぺんが丸い窓(西田聖)から差し込む光(吉本有輝子)。両端は黄色で真ん中は紫と赤、そのあたりのライトアップ以外は装置も照明も手堅い作り(面白味は少ない)。
林アンナは、1年間ここで暮らしてこの地方の方言(土田の創造言語だ)を口写し(男のぞんざいなことばになったが)に学び、すっかりしゃべれるようになった。外国人をバカにしているのではないが、会話のベースにある言葉の選択が一筋縄ではいかない(ヤクザと堅気の違いももちろんある)ことが、林の笑える会話からうかがえる。私のことを「わ(っ)ち」という地方が、実際にありそうな気がして仕方がなかった。
客席は両側から突き出した突堤を見る形になる。奥の方が客席が多いのでこちらがメインなのだろう。いつもは鍵がかかっている使われなくなった突堤。錆びた柱。縄をかける鉄の塊。ただそれだけの舞台。男三郎(白井哲也)が台湾へと一人旅に出ようとしている。古い四角い皮鞄。この劇団好みの鞄だ。
女友達こよみ(福井玲子)と実は三郎の恋人かがみ(足利智美)がお別れに来ている。幌馬車の唄を歌う三郎。この唄は実は三郎のおじいさんが教えてもらったもので、かがみも歌える。いつも三郎が歌っていたからだ。
おじいさんのいる台湾の南の島に三郎は行こうとしている。少し前に亡くなったおとうさんにおじいさんによろしく、と言われたからでもある。三郎がなぜ台湾に行くのか(自分のルーツ探し?)それは誰にもよくはわからない。行って何をするのか、帰ってくるのか来ないのか、たぶん三郎当人にも定かではない。
三郎の姉、夏子(山藤貴子)は、実はおじいさんは2年前に船上で死んだことを知っている。なぜ三郎にそれを知らさなかったのか。おとうさんにもおじいさんの死を知らすことはできなかったからか。
夏子と三郎の母親はおじいさんの住んでいた島で死んだ。父霧雄(蟷螂襲)は大阪へ向かう。おばあさんの故郷だからだ。その後すぐに台湾と日本の国交が断絶。海を隔てた島同士には、戦争の暗い影が深く覆っていた。
作田(桂つく枝)という丸い男がそれらを調べてくれた。彼もまたルーツが台湾。それもタイヤル族のいるウーシャ(高原の先住民族)に関係していた。夏子と三郎のおじいさんはそこのタイヤル族の人だった。
が、おじいさんは日本人巡査の娘と結婚。そのためにウーシャ事件には直接関係しなかったが、タイヤル族と日本人との間に入って身を裂かれるものがあったと思われる。ウーシャ事件とは、自文化を略奪する(入れ墨の禁止、学校での日本語の強制・・)日本人を殺害する所から始まるタイヤル族への報復的ホロコースト事件のこと。
かなり悲劇的な過去を物語るが、三郎が勤める零細工場の社長峠(や乃えいじ)のオヤジまるだしのおかしさ悲しさが滑稽で、悲壮感ばかりが全編を覆うわけではない。こよみの演技はいつもと同じで少しおおげさだが、峠とのけなし合いはどつき漫才風なスタイルが出来ていたので楽しめる。
初めの大きな波の音、終わりの雷の強さ。しっかりとしたメリハリがあったため、亡くなった父親そしてその若いときの父親と自分たちの過去そのものを、舟に乗せて霧の中へと出立させるシーンを茫漠としたものではなく奏でることができたと思う。
それに、海へと顔を向けるシーンが多かったために、過去の3人が登場することで向かい合うシーンが最後に生まれ、これで、一方向への語りだけのある種の単調さに、文節を入れたことになったと思う。
・・こぞの別れが永久(とこしえ)よ。思い出多き丘の上で・・。(ここの芝居の特徴である)芝居の舞台で唄を歌うこと、これについて考察したくなるような、そんな効果的な芝居だった。
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