10 1999/9/30(木)
ケン・ローチ監督「マイ・ネーム・イズ・ジョー」
京都朝日シネマ2
9.30.木
「大地と自由」を観た後「カルラの歌」は観ないでいた。観客は多くないが中年女性二人組のすすりなき、リーゼントで固めたかっこいいお兄ちゃん、欧米人などさまざま。
かなり悲惨な話であり(アル中にヤク中)、救いのない暗さだ(酒浸りに舞い戻り、とヤク中がらみの自殺)と覚悟していたら、意外とさらりとしていた。
草サッカーチームのエピソード(ブラジルチームのユニホーム商品を盗んじゃう)もおかしいし、30歳代後半(でも雰囲気は40歳代だ)の男と女のラブストーリーとしても、かなりのもの。
グラスゴーの断酒会。ジョー(ピーター・ミュラン)がアル中を克服したと、過去の経過を淡々と話している。聞いているいまアル中を治している男の顔、女の表情。失業中のジョーだけど、彼の唯一の生き甲斐は、サッカーチームの監督であること。
一方、健康センターに勤めるセーラ(ルイーズ・グッドール)はサッカーチームの一員でもあるジョーの甥っ子家庭を訪問している。
甥っ子は結婚し子どもを授かってヤク中からなんとか脱皮。でも彼の妻がだめ(そのあと、やくざに借金していてどうしようもなくなり、ジョーが男気を出して悲劇を招く)。
確かに甥っ子は自殺し、ジョーはせっかく禁酒していたのにドランクン状態で悪態をつく結果になるけれど、ラストの葬式にセーラがジョーを見守り、最後に肩を並べるので、希望の光がまったく閉ざされた終わり方ではない。
そんな簡単に酒をやめたり、女房に手をあげたり蹴ったりしなくならないよなあ、とずいぶん酒で失敗し女房にも逃げられそうになった私としてはしみじみと、京阪三条駅でチュウハイを買い(160円なり、JRのキオスクでは170円だから京阪っていいのかも)、また飲みたくなって山科駅でアサヒの富士山を買った。
ジョーがヤクの運び屋という危ない仕事を、甥の身代わりに引き受けて、セーラの深い絶望を呼ぶのだけれど、これにはヤクに犯された子ども達の悲惨な姿を数多く見たセーラの仕事上の経験が大きく作用する。
セーラにとって、ジョーらの仲間達は、福祉職員という役目上、救ってあげるべき対象であったわけで、それが一転愛の対象、女と男になる、というのは一筋縄ではいかない話であるのは確か、なのだ。セーラが妊娠することを同僚に告げたとき、その同僚が言う台詞がおかしい。あなたは10代女性の妊娠予防クラスの指導者だったよね・・でもおめでとう。
本筋ではないが、ジョーがチェスをしながらヤクの運び屋をすることを告白したりする男は誰なのだろう。公的な仕事をしている人かもしれない(制服をきているから)。あとグラスゴーの警察はこんなとき(甥が脅かされているとき)同じ穴の狢同士のことだから助けてくれないものだろうか。
ギャングの親分とジョーは同じ地域の出身でどこか仲間だという意識が、警察というよそ者による解決(それはないということか)を求めないのだろうか。
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