Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》NAMANARI
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今年のダンスはこの「舞踏」で締めくくることができた。トリイホール、19:38〜20:38。岩名雅記Dance Directe「生成」(NAMANARI)。構成・ダンス/岩名雅記、1985年東京初演作品。照明:岩村原太、音響:秘魔神。
制作の志賀玲子さんが、受付で「装束は水」とともに売っていた岩名雅記の論文(300円)を買う。『モノとしてのヒト---現代舞踏と裸体---』。とても大胆に、踊りと舞踊と舞踏を対比し、物質と物質性とモノ、(制度の中に生きる)人間と(個的な)ヒト・・・を独自にアーティキュレーション(文節化)していて、とても興味深い。が、とりあえず、舞踊と舞踏との対比のフレーズと、この「生成」の関係の所を引用しておく。
<<舞踏ではモノとしてヒトは自己をくまなく開陳(全開--opening)しなければならない。一方舞踊では対象となる舞踊家のからだは規範化されているので、舞踊体の絶えざる精錬(結晶化--cristalization)が要求される・・>>(注:一般にはここでいう「踊り」を「舞踊」そのものと呼び、舞踏は舞踊の一種とすることが多いので注意が必要である。彼はまた、舞踊にはコンクールによって優劣がつくことがあるが、舞踏はかけがえのない個=生命だから、順位をつけることはできないと言う。つまり「舞踏はすべて第一位」)
<<・・85年以降、私は着衣により衣裳と裸体の道行舞踏を歩むことになったが、大切なことは私の場合、着衣して踊っていた者が裸体になったのではなく、長い間裸体で踊っていた者がその上に着衣したという事である。・・・ともかくわたしが『生成』で宮廷婦人(ローブ・デコルテ)を着けた時、それは装うものとして着けたのではなく、制度社会や、女性を女性として封じ込めている規範を裏切るものとして着衣された。そして坐位でその華麗なる宮廷衣裳の下半分を瞬時はねあげると初めて男性性器がぶら下がっているという訳である。・・ともかく既に空気に触れているという意味で硬質な裸体と衣裳は相関(同じ比重を持つ異なる質)関係にあり、その相関(或いは相姦)が立ち会う人々に性を想起させる。・・・>>
ステージは何もない。最後に、薄い半透明の幕があって(それは初めは黒幕で閉められていたのだろう)、奥に入る扉になっていることが判明するが。席は、いつもよりも少なくて、入口と反対側に向かうように少し傾いている。ぎっしり。私の隣にカメラの人。実は始まってすぐに、びっくりする叱声が岩名雅記の口から飛び出る(公演後志賀さんがカメラの人に詫びていたようだった)。
ライトがついて、それまでの中国音楽のようなBGMから、日本の太鼓の音楽に変わっている。かなりの長い間、大きくなったりするが同じ音楽(大きくなった後は、秋の虫の声だけになって幾度かしーんと静まる)。女性のかけ声が高くて尋常でない狂気に近いものを感じる。
照明に浮かんでいた岩名雅記が戸口に立っているのに気付くのが少し遅れた。装束は、白い(「きなり」の感じで、ライトによっては黄金に近いクリーム色になることあり)長い振袖の着いたドレス。
和洋が交じっている。背中にレース地の羽と言ったらいいのか、太鼓帯とも違う(針金かなにかでとりつけられているので、体に密着していない)し、独特のもの。途中で、抜け殻を付けた蝉とか、えんどう豆が発芽して殻をつけた状態とかを連想する。
私たちの方を見て、写真やめろ、なめるんじゃないと。客席との予めセットされた威嚇なのか、あるいは彼が舞台の終わりの方に語り出す言葉の披瀝が始まったのかとも思った。でも、違うようだ。シャッター音が気になったかその場に合わないとカラダが反応したのだろう?。もちろん許可された記録のプロのカメラマンだろうがそれから彼は写さなくなる。
光が落ちて、床に黒い影が出来る。片足をあげ。と、後ろ向きにひっくりかえる。すてん(頭はもちろんぶつけない、絶妙の地への回帰)。同時に床からの照明。いままで見せていなかった足の裏が白く美しい。そして、足を頭と同じ高さに持って行き、口でまず衣をはずし、足に口づけする。
今度は、お尻をめくる。浣腸を無防備に無邪気にされているような姿勢だ。赤い照明に変わる。女の子による2重唱「もみじのうた」が流れる。・・谷の流れに散りゆくもみじ。赤や黄色の色さまざまに。・・あらわになった尻、こちらからは性器はみえない(横に座ったので、でも正面でも見えなかったかも)。
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