4 1999/9/17(金) 

桃園会「熱帯夜〜うちやまつり前日譚」 

アトリエ劇研(京都市内)

9.17.金 アトリエ劇研。

桃園会第17回公演「熱帯夜〜うちやまつり前日譚〜」。19:39〜21:00(1、2分早かったかも)。

作・演出/深津篤史。舞台美術/池田ともゆき、岡一代。白いテント。団地の夏祭りの会場。

会場は「うちやまつり」と同じ「小山さんちの庭」。自治会(いや夏祭り担当か)の役員や警備員が出入りする机と椅子(その椅子に座ってその空き地を出演者たちが眺めている格好になる、私たちが彼らに眺められる格好になる夏祭りにきたお客である)。

テントの後ろではカレーの鍋が火にかかっている。隣に大きなジャー。ラスト近くに後ろの白い覆いがとれて背の高い薮となる。そこから人が現われる。それまでは白いテントの背後から人が出入りしていたのは、単に机をどけて出入りするのがめんどうからだと思っていた。でも背後がこんな本能が露呈するようなジャングル?だとしたら・・・

音効/大西博樹。待っている間のBGM。蝉の声にかさなるラジオのとめどなく騒がしい会話。ときおり挟まれるニュースで、桐生第一高校が優勝して群馬県に戻ってきた、というフレーズが聞こえるので、今年の8月の終わりだということが分かる。そういえば、和歌山のカレー事件からはや1年。林さん、という隣人をいま和歌山市のあのご近所はどう思っているだろうか、とか想像させてもらえるような設定。

劇の最後に、カレーの鍋の蓋に秋の虫の声。その前に、真夜中の蝉の声、という誤解があって、実はそれは螻蛄(おけら)の声よ、という割と重要な音のシーンもあった。

舞台監督/塚本修。彼だっけ、玩具のカラオケでアニメの主題歌を歌って登場していたのは。

ちらしによると、「ちなみにお話は『うちやまつり』の前日譚、四ヵ月程時をさかのぼって一夜の物語。単なるナゾ解きじゃないって事は保証します」。と言われるが、どうしても去年(でよかったかな)観た「うちやまつり」を参照しようとしてしまう。でもきちんとは思い出せないのだ。より混沌としてしまうぐらいで。

藤原さん(河合良平)や藤原さんの奥さん(谷野智美)、田中さん(藤野節子)や田中さんの妹さん(加納亮子)らは出ていたのだろうか、同じ人たちだったのだろうか。

田中さん姉妹はTシャツの色がお揃いのオレンジ。蝉の声で「さかっているよね」。「何人め?」と藤原さんに聞くが、実は藤原さんにしか二人が見えていない時があるようにも思える。普通の会話ではなく、奇妙な掛け合いの妙。怪談をいくつも藤原さんに迫り、自分たちはおとぎ話のような恐い話(現実の比喩のようでもある)をする。

はっきりといま指摘できるのは、鈴木さんの息子さん(亀岡寿行)と佐藤さんの奥さん(江口恵美)。どちらも暗かったり奇妙な感じで登場するがほんとに少しの間だけ訪れる人。山本さん(紀伊川淳)と山本さんの娘さん(森川万里)は確かいたいた。中学生の連れ子でおかしな相姦を前も匂わしていたっけ。

ずっといるのはカレー当番の前田さん(はたもとようこ)。フリーターらしいが、前田さんの娘さんとか奥さんとか言われていないのは、一人ぐらしだからだろうか。もっともまともな(醒めた眼を持つ)神経をしている。後半は疲れて眠っていて夢を見る。その夢が前半のシーンに近くて、この芝居自体にも前田さんの夢が一部交じっているのではないかと勘ぐらせる。

前田さんと藤原さんの奥さんの高校生を懐かしんだりする会話のように、結構動きのないシーンが多く、そこから藤原さんの不倫の話が出てきたりする。でも藤原さんの不倫は奥さんのからっぽな今にとって大して重大ではないかも知れない。奥さん自体をどちらかといえば見つめている舞台だ。上田さんの奥さん(川口真理)は、新興宗教を夫とともにやっていて、丸め込むのが上手というが余りにも嘘っぽく軽薄なことばなので、そんなんで伝道できるようなそんな団地の寂しさが逆に浮かび出る。

えっとこれで全員かな。救急車が2度ほどやってきたし、忘れかけている「うちやまつり」をまた見れるから、そうするとこの芝居の3つの小さな穴(たま、ぶち、みけの子猫が眠っているんだっけ)と大きな穴のことがまたくっきりするだろう。結局いくらその前後を追加しても謎解きが完了しないのかも。やっぱり、深い人間の闇はやっぱり闇のままで、人間を知る(=演劇を見る)ということは、その闇から闇の間にかいま見られる人と人の交流のうすぼんやりした光線を眺めるだけだということなのかも知れない。

ただ、この「熱帯夜」は意外とさっぱりした感じでどうしても歌舞伎での続き物のようにこれから、本当の見せ場が来る前の一幕のような感じもある。

口に出すとホントにそうだと思えることもあるし、逆にそうではないのではないかと疑ってしまうこともある。という会話が劇中にあった。それはたぶん独り言ではなく、相手があるからこそその言葉の発した先の反応を他者が聴いたのと同じ言葉として聴くからなのだろうが、まあ、表現するということとか、そこに何かを存在させるということの底にある問題をもったいぶらずに提示しているようでもある。


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