Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Seoul Citizen
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3/12(日)
青年団『ソウル市民』AI・HALL
青年団の平田オリザが、当日パンフで「『ソウル市民』は今でも、私の一番好きな作品です。演出はこの十年でずいぶんうまくなったような気がしますが、戯曲に関しては、この作品を超えるものを生み出せないでいるとさえいえるでしょう」と書いている。
《朝鮮人女中二人が日本語でしゃべっているのを聞いて、長男謙一(松井周)が、朝鮮語でしゃべりなさいよ、と言ったシーンは、韓国ではどう処理したのだろうか。今回ふとそれが気になった。朝鮮語は万葉集などないし第一あの発音はどうも文学に向かない、という長女の日本語のセリフを朝鮮語でしゃべることは、また別のきついアイロニーになって韓国の観客に届いたはずだ。》
私は93年4月24日に下北沢ザ・スズナリで観ている。始まると同時に冷房が止まりかなり暑かったことが禍してか、間が多すぎるようだという感想をノートに記している。
そのノートに書いていた粗筋:「日韓統合前夜(1909)の朝鮮半島、そこの日本人家庭(文具商店をしていて裕福)。書生や朝鮮人のお手伝い2人がいたり。日本人の朝鮮人に対する偏見(文学に朝鮮語は向かない)」。
青年団第35回公演AI・HALL自主企画Vol.105『ソウル市民』作/演出:平田オリザ。
15:08〜16:43(客入れが14:40、10分ぐらいしてから、大工が座ったり女中がお茶を持ってきたり)。
練り上がった演出と演技。大笑いするのではなく、ぽろっと生じる(ピンポン玉拾いや万国旗を椅子の上で広げる)おかしみ。
93年にはその辺りの演出の妙を観察する余裕が自分にはなかったのかも知れない。きっと彼の作品を見続けてきたことがこの作品のよさを感じられる一番の原因だろうけど、以前の『ソウル市民』よりも、演出がかなり緻密に構築されているので、微妙な所作のニュアンスが退屈する暇を与えないのではないかと想像する。
劇団という形態のいい点は、持続し役者が新陳代謝することによって、年齢層が広がり(オリザが排除してきた中間管理層が劇団内部に出来ないような工夫が必要だろうけど)「老・中・幼」の3世代が無理なく描いていけることだと観ていて思う。
印刷屋の大塚洋は、昔(94.2)カザルスホールでレクチャーコンサートをさせてもらったときの舞台監督だったが、もうすっかり味のある中年の役者として定着している。
私が今回一番嬉しく感じたのは印刷屋の妻役の安部聡子の脳天気な妻すがた。「軍人はなんであんな退屈な話をするんでしょう」。きっと、長男と朝鮮人女中李淑子(安田まり子)が駆け落ちした話も彼女の口コミであっと言う間にソウル日本人社会を駆けめぐるだろう。様々な尾鰭をつけながら。
でもだ。彼女も座っている時に、わざわざ日本人の朝鮮人への差別意識についてをこんなに平気に話題にすることはないよな。と私たちですら憤るんだから、ずっと彼女は煮えくりそうになるのを堪えてここで働いてきたのだろう。
その彼女の怒りという意思表示は、断固として梅干しを買うと主張して、長男との駆け落ちに及ぶことまで秘められていたのだろう。
が、ではそれは、朝鮮人に親しくしていると自認している日本人家庭の重苦しい重圧への反抗なのだろうか。
あるいは、無意識に不安を感じる長男が、優しい淑子を利用して唆したのかも知れない。それならば、彼女のその後は悲惨という一語になってしまう。
もちろん、何も芝居に結論もなく。
最後にワインを抜く父親が、写真を見て、長男謙一はいつもはへらへらしているのに、写真ではどうしてこう哀しそうなのだと呟く辺りに家族の行方の不安が濃縮して感じられるようになって終わる。
謙一の叔父になる慎二と謙一の母春子との関係が、春子の妊娠とどう絡むのか、消えてしまった書生の知り合いの手品師はどこに行ったのか、日本人女中福島とめは内地で結婚するのか、無事、慎二は満州に行くと嘘をついてソビエトに向かえるのか。
10年後を描く予定らしい新作『ソウル市民1919』が待ち遠しい。
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