Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Tawada Yoko's novels
小説(言葉の芸術の一つですよね)を読んだのも、読書で新鮮なドキドキ感に浸ったのも久しぶりだ。
昨日までゆっくりと楽しんだ小説集『ヒナギクのお茶の場合』2000.3、新潮社。5つの短編が入っている。著者は多和田葉子。大学を出てハンブルグ大学院に行って以来ずっとハンブルク暮らしの芥川賞受賞作家。
まず、本の表紙がいい。標題にもなった「ヒナギクのお茶の場合」に即して、ティーバッグが表裏にまたがって撮されて、その染みが紙を斑模様に染めている。化粧カバーを取ると本体は真っ白で背表紙の下にティーバッグの四角い紙片だけが小さくある。
初めは「枕木」。オランダのロッテルダムに向かう「わたし」。長距離列車に乗ってワープロしている。どうも「兄」について書いているようだ。兄とわたし。兄は銀行に入って出世するのかと思ったら、「歩くことと食べることが億劫になり、出勤するのがいやになり、銀行の方では、ちょうどタイミングがいいとかで兄をクビにしてしまった」。そして家に閉じこもったままだ。
一方、子どもの時は堂々としていた兄と違っておずおずとしていたわたしは、列車にただ乗っていて利子も増えず思い出だけが残るだけだったが「そうして列車に乗り続けているうちに、わたしの方は、お風呂に入っていても寝床に入っていても、見たこともないような風景が次々と心に湧いてきて、何かに不足することが失なってしまった」。
ワークショップ「本を読む」(91、93参照)のように元精華小学校でこれを読むとしたら、どこがいいだろうか。地下への明かり取りのある1階廊下かな。玄関の世界地図の所も面白そうだ。
次に「雲を拾う女」。かなりシュールな話。何せ語る人?は「(わたし)」で、冒頭から「哺乳ビンの乳首」に変身してコウモリと呼ばれる女のポケットに入る。それからは日常生活もきちんと描かれる。「枕木」では淡々とした始まりから想像力が夢のような世界にひょいひょい飛ぶ構造だが、これは逆に異常な世界の中に日常が浮かんでくるような感じ。会話の行替えがあるので「枕木」よりは読みやすい。でも朗読したいという場所があまり思い浮かばない。
「ヒナギクのお茶の場合」。やっぱりこれが一番みんなの前で声を出して読みたい小説だ。ハンナというわたしのユニークな友人が、舞台美術家で照明を習いたいと「ニシキヘビのようなコード」をひきずっていく話だからでもある。そして、短い文が引き起こすリズムのためでもある。たとえば・・
《ハンナは使用済みのからからに乾いたティーバッグをもう一度濡らして、手漉きの神の上に並べる。ハンナはもう一度濡らして、並べる。ハンナは。紙に歪んだ四角の染みができる。茶色がかった黄色い黄色に、植物の緑が不可解な記憶のように混ざっている。・・》
《滴が落ちる。したたり落ちる。滴は玉になって、お茶の表面でトランポリンする。たたたたたたっと落ちていたのが、たったったったったっと、滴の間隔が伸びてくる。それから、たっと言ったきり黙ってしまう。わたしは腰をひらがなの「く」の字の形に曲げて、そろりそろりとティーパックを移動する。・・》
もちろん、これを読むのは元精華幼稚園のプールだ。ティーバッグを捨てないで取っておくこと自体けっこう、アーツしている行為であるが、それが「わたし」が書いた戯曲「地図を食べた人」の舞台美術として、このティーバッグを世界地図へと広げるあたりに想像力の気持ちの良い飛翔を感じる。そうか、これもやっぱり玄関の世界地図の前でもいいわけだ。あるいは、薄暗い理科室。
掌編の集まりの「目星の花ちろめいて」(ぎゅっとエッセンスだけになっている)。
そして最新作「所有者のパスワード」。途中までは滅茶苦茶面白かった。
6/17(土)
続けて読んだ多和田葉子『犬婿入り』(講談社文庫、98.10)を朗読したくなって娘さきの帰りを待つ。
特に「ペルソナ」の方は、ドイツ人のシュタイフさんが、同じような裕福な専業主婦の佐田さんや山本さんの前で日本についての先入見を話すシーンがあり、仕事場である研修所(ここで異文化理解の演習をしている)でも朗読したいぐらいだ。
一方、芥川賞を取った「犬婿入り」は、変わった塾教師「みつこ」が超現実的な民話の世界に入っていく話。1960年代的な反近代的な土俗性が少し残っているものだが、それがヒッピーではなく廃屋や廃校好きのいまの30歳代女性の感性(潔癖性との格闘)をも刺激するものであるのが特徴。
どこか60年代を飛び越え、その前の別役実的な世界(「コスモポリタンとしての異類」)に「みつこ」は繋がっている感じもする読後感だ。
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