Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Yami-Hikaru:Yugekitai
とても心震えた舞台を観たのに何だか書くのが怖いという時がある。怖いというのか、もったいないというのか、ただ書く言葉が稚拙だから自信がないというだけなのかも知れない。
なんだかよくよく考えると解らないがこの夜の芝居もそういう類の芝居だった。京大西部講堂前のコンクリに早く着きすぎて座って漫画を読んでいる。19時になっても人が入りださない。いくら京都の観客が少ないといっても変だなあと思っていた。遊劇体はどうしたのだろうか。
心配になりながら受付をすます。ここの対応はいつもにこやかで親切だ。暗いので足許を注意するように誘導される。講堂内のほんの一部が客席で、こちらも地下の穴蔵(芝居を見出すとここが昔の防空壕だったことが解る)に入っていくように、その穴の入り口に枯れ草が生えている。
上手の上の方に地上の入り口が小さく見え。草がやっぱり生えている(のを覗けるようになっている)。途中から台風の風と雨の様がその地上の草によって表される。そこから下に続く暗い通路。防空壕の上はちょうど壊す前の木造の校舎で、真上には臭い便所がある。
遊劇体#34『闇光る』〜白骨のワタシが恋人たちとみる夢〜。
このタイトルといつもの暗くておどろおどろしたチラシの絵を見ていると、やっぱり妄想や悪夢を描く普段のアングラ的な遊劇体なのかと思うだろう。ところがどっこい。近未来とか訳解らない動物の世界だったりすることが多い遊劇体なのに。
ここは、実在した防空壕の秋である。祭り前。そして校舎の真下。
地域も大阪と和歌山の境界あたりの田舎(でもこれから開発して土建屋が儲かる場所)。田中真紀子のお父さんが活躍した時代、1970年代前半。言葉も関西弁。
(ワタシより少しだけ上の世代のことでもあって、特にリアルな設定が身にしみる。)
たとえば。
登場人物の一人タクヤ(坂本正美)・・・りっちゃん(立命館大学大学院)に一応はいるが、親父の医院を嗣ぐでもなくギャンブルに金を使っているだけの情けなさ。新左翼が京都あたりだけまだぐずぐず生息していたそんな実感がよく出ている。
台本・演出/キタモトマサヤ。彼のなかで「フィクションには違いないが、私のプライベートな人生に深く関わっている」もので、10年ぐらいから予定しながら出せなかった世界だという。ある意味でもろく情けなく、でも、彼の造ってきた妄想的でシュールな世界の原点であることは間違いない世界。
常に学生時代の隠された出来事に舞い戻ってしまう、男と女。中上健次的な世界にも通じていたはずの神話的な土地の、無惨な変容、薄っぺらなコンクリート化に光る魂のかけら。
19:34〜20:46。照明/金森朗。蝋燭をともしていくラストなど、「暗闇」をいかに見せていくかという、照明にとってはやりがいのある舞台だっただろうと思う。音響/大西博樹。
この舞台は大きなアクシデントがあり直前に陽州大が出られなくなって、アキオ役だったと思われる菊谷高広が急にヨシキになる。ヨシキは中学時代医学部に行けるぐらい秀才でスポーツ万能、女にもてもてだったのに、ある濡れ衣事件に弁解もせず、そのためか土建屋の平社員である。
そんなヨシキ役へと、土建屋の頭の良くなかったであろうアキオ役だった菊谷が数日前に代わったのに、よくここまで舞台にしたものだと感動する。
もちろん、背の低く恰好のいいわけでないヨシキが、自分よりも背の高いアズミ(大熊ねこ)と向かい合うのは、それらしくないとも思えるが、こんなアンバランスもよく若いときにはあるとも主輪させてしまう力がこの舞台にはある。
で、土建屋のアキオは、キタモトマサヤが代役となった。その大きな声、大きな体には一種独特のモードがあって、これもまた他の役者とは異質なのだが、中上健次的などろどろさが溢れそうな体躯が、逆に激しい台風とその後のからりとした祭り日和を予感させるから不思議だ。
おしっこの匂いがたまらない。話の中身はつらく、優美さの微塵もない男と女、特に女の強い嫉妬をないまぜた情愛が、南米の小説のような濃厚な臭気がたちこめて、洞窟内を生者と死者との交歓の場と化していくのだ。
ラスト。
地上へと上がるアズミの紙袋のなかの懐中電灯の灯りが、掘り出すことなく埋もれたままのミチヨの6年間への、弔いの蝋燭と呼応して点っている。
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