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2/1(火) 
南河内万歳一座『流星王者』扇町ミュージアムスクエア

OMS、南河内万歳一座『流星王者』作/演出:内藤裕敬(いつものように少し出演も)。19:37〜21:13。

流星の落ちる場所を追っている少年。

少年はいつしか、寂しげな独身の若いサラリーマンになっている。

ワンルームマンション。

花火はまだ夏の終わりに燃えているだろうか。アントニオ猪木やジャイアンツ馬場のサインをもらう。そんなことが死ぬほど嬉しかった昔の少年時代は、本当にあったのだろうか。

流星のかけらが、蛍ではなくて、ベランダでお父さんが吸う煙草の火になっている団地。彼ら彼女らが乗ってしまっている急行。
つい寝過ごすと、訳の分からない「終着駅」(始発駅だったとしても何も変わらない)に着いている。
そこが目的地なわけはない。単なる工事がそこで終わっただけの仮の終着駅。
みんなに遅れず並んで乗り換えなくちゃ。

結局私たちが流星のようね。

前作「夏残暑」が自分にはかなりきつかった(やけに筋が入り組ませていて逆にあざとい感じがして新鮮味がなくなっていたから特にそう)、もう観ないでおこうかとさえ思った。
一方、今回は淡泊だが、更にマンネリ(特に音楽が)と言われても仕方がないものだった。
みんなが群唱するのはホントにもうびっくるするオールドスタイルだった。

前作で感じたことのうち、劇中における対話のなさ、つまり詩のような(意地悪く言い換えると「写実的でない/とってつけた」)モノローグがそのまま全面に出たものだった。

が、それにもかかわらず、今回はとても心に残ったし、安心感があった。

どうしてだろうか。これでいいのだとさばさばして思えるのはなぜか。こうして一つずつ年齢を重ね、世代的な違いを明らかにしながら、自分の声を不器用に紡ぎつつ、気持ちの良い肉体派の役者たちと芝居を作って、各地を回る。

それも、中層や高層の団地が最近になって(普通しかとまらない、少し前はとても鄙びた)駅前に立ち、駅からバスに乗り換えやっとたどり着く(建て売り住宅がちまちまと並ぶ)振興住宅地を持っているような各地の「平凡な衛星都市」。

そこにできたぴかぴかの「文化センター」を、劇団員を連れて回っていく座長。〜こんな「文化センター」を建てるのでも、名もない衛星都市にとっては、サラリーマンが出来合いの家を買うのと同じ「はかなく心許ない感慨」が去来するはずだ。それが本当に自分の住処と思うと淋しくなるから仮の宿と割り切りつつ・・でも財政硬直化という一大決心をするわけだから〜

そこで、この芝居に出てくるようなお母さんやお父さんや子どもたち、そしてあのじっと夕暮れまで座っている老夫婦たちに出会う。日本中同じような楽しみと悩みを持つ生活。

それらを巡るワークショップなんぞもしながら(この前の第三エロチカ「ハムレットクローン」が参照される)、そんな小さな幸せと不幸せの合わさった「社会と対話」することだって悪くない、と思う。

20年ほど歌い続けているシンガーソングライターがいて、その人のメロディも歌詞もこの10年ぐらいはあんまり変化がないのに、やっぱりいいよなあと思ってふと目新しい音楽に疲れたときにかけてみる、そんな状況にとても似ている芝居を観たのだと思った。

時代を鋭く切り刻み告発するのではないけど、ナルシスティックにアングラをしているだけではない、そんな中年の姿がそこにはある。

きっとお説教臭さが今回は少なかったから、ここの変わらぬ良さが損なわれなかったのだと思う。

ずっと通奏低音として流れる急行列車と停車場の情景。

問題は団地もワンルームマンションも駅前も学校も、点描のようにばらばらとあることだけど、前作のようにお話がぐいぐいあるのも疲れるので、こんな群像劇も、冬ざれた季節には似合っているのかも知れない。

構内の無差別殺人と犯人を追った無謀なほど勇敢な中年男も何だか、すぐに忘れ去られている。なぜおまえは追わなかったのか、という主人公に対する答えられない問いを残して。

主人公以外は、みんな季節や類型を表す帽子を被っていた。

冬の防寒(傍観?)のための帽子だったり、子どもの通学(体育)帽だったり、はしなくも団地妻の徴(しるし)だったり。

あえて、個性とか個人とかにこだわらないのも(個別の役者の役柄との対比を示すチラシもない)、淋しいながら一つの見識かもしれないと思う。


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