Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》cinemahall-shiga

30 
11/30(火) 
テオ・アンゲロプロス『永遠と一日』滋賀会館シネマホール

滋賀会館シネマホールというのは、5年ほど前にできた滋賀県立の映画専用ホールだ。当時、滋賀県内にあった古い映画館が次々につぶれたこともあって、どうしても映画を県内で常設のかたちで見たいという思いで改装された、音もよく見やすい施設である。

だが、その後、シネマコンプレックスという形で大津市中心にハリウッド映画など商業映画をどんどん上映する新しい施設ができたこともあって、平日などは観客が一桁ということも珍しくはない。

でも、京都で見損なったアート系映画を1週間単位で見せてくれるために、私たちにとっては貴重で、お金のかからない(交通費や会員費用の安さ)公共文化施設なのである。

11/17にも、ここでエリック・ロメール監督『恋の秋』を見て、実にしみじみとしたばかり。
例えると、京都みなみ会舘や京都朝日シネマの路線を合わせて3で割ったような(過激に尖ったものは場所柄少ない)良質のラインアップのように思える。

----というような前置きをつけたして、11/30の日記に移ろう-----

この映画館への道は、余りに淋しすぎて(大津駅は本当に暗くて人けがないのだ)、帰りに風邪をぶりかえしたらいやだから、女房を誘った。

ずっと冬の、何もあまり見えない海や霧の中の景色が、主人公の最後の1日として、これでもかこれでもかと続くのかと思ったから。

テオ・アンゲロプロスと言えばずっと以前に「旅芸人の記録」(岩波ホールだろう、まだ結婚していなかった女房も別に観ていて話をしたぼんやりした記憶がある)を観た後遠ざかっていて、10年ほど前、雹の降る福岡の小さな映画館で「霧の中の風景」を観る。

そして、どこで観たのか忘れたが、亡命があり、ずっと荒野のさすらいが続いたような「こうのとり、たちずさんで」を観ている(「ユリシーズの瞳」はまだ)。

滋賀会館シネマホール『永遠と一日』テオ・アンゲロプロス監督/脚本。1998年、134分。

映像の詩ということばが陳腐になってしまう。

そして驚いたことに、まばゆい思い出の中の夏の海。

国境の雪道や雨が冷たい車道をさまようこの一日に、その夏の白い光が突然訪れるから、よけいに鮮やかだ。

子どもの時に飛び込む海と、生まれたばかりの娘の親族へのお披露目の日の海。同じ夏の海だが、作家で詩人になったアレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)にとっては、その砂浜にもう一緒に並んで海と戯れることはできない。少し崖を上ってくる、と妻のアンナ(イザベル・ルノー)から背を向け離れていく主人公。

最後の一日が過ぎようとしている夜明け。取り壊されつつあるかっての海岸の生家で、アレクサンドレは海をバックにいる。緑の海が迫っている。

音楽(エレニ・カラインドルー)はオーケストラによるクラシックと、アコーディオンなどの庶民の音楽。結婚式の踊りと楽隊のシーンは素朴に弾む心地よさ。町中を椅子を持って移動する。

クラシック音楽の使い方では、バスの中に演奏者が乗り込むシーンが素敵だった。隣の見知らぬ部屋から、彼がかけた音楽を、こだまのように小さく鳴らし返す、合図としての使い方。音楽ではないが、詩を呟く声も大切な音。この映画は詩のことばを巡る映画でもある。

カメラは、パンというのでいいのだろうか、ぐーんと回ったり近づいたり、カメラの移動車の動きがまるで見えるようだ。砂浜の人びとの一列のショットは植田正治の砂漠での家族写真のよう。バスの移動とともに3人の黄色いレインコートの自転車の男の移動も、滑稽でシュールなショットだ。

笑顔がかわいく、でも淋しげな少年には名前がない(そのまま去っていった)。アルバニア難民の一群。停車した車の窓を拭くこの少年を救うところから、最後の一日でのアレクサンドレと少年の交流が始まる。

人身売買の売場から引き去り、少年を国境に連れていって戻してしまおうとする主人公。だが、彼の村は焼け果て、地雷の恐怖を越えてここギリシャへとやってきたのだ。兄のような相棒の死。遺品を少年が焼却するシーンは、少年達が回りで見守り垂直性が強調されたセットは教会のミサのようだ。

少年の未来は祖国にはなく、さまよい続け「よそ者」であり続ける運動にしかない。それでも、彼の人生は始まったばかりだ。船は国境を軽々と越え、港と港はひとときの休憩場にすぎない。

アレクサンドレがずっと会っていなかった母親を訪ねる。綺麗な病院の立派な個室。でも母は若かった自分の昔の思い出の断片の中でしか生きてはいない。

母との交流はいまはもう不可能になった。アレクサンドレと呼ぶ声は、彼の中にしか残っていないのだ。

「ベッドの母親の傍らにやはり病に冒された息子が立つ」カットは、もう完璧に西洋絵画の伝統を再現している。

叙情詩として、筋書きは大まかにとらえられる。そして、彼との関係のある人たちを抑えておけば大きな混乱はないはずだ(彼と彼の妻、娘、母。家政婦、少年、医者、それに19世紀の詩人ソロモス・・)。

あとはなぜ「永遠の一日」ではなくて「永遠と一日」なのか。それは、「明日の時の長さ」について妻が答えたもの。

時の長さに決まった答えはないだろうから、「と」に含まれる謎は、「人生は美しい」というソロモスの詩とともに、見終わってからも持ち帰るお土産である。

少年が出てくる場面で少し涙腺が緩みかけたが、隣の女房が途中からかなりぐずぐず鼻をすすっていて、終わりには涙で顔中ぐしゃぐしゃだった。きっとアンナに感情移入しているのだ。私はアレクサンドレのような立派な詩人でも何でもないのだが。

まあ、女房をいままで放っておいた償いに、今になってようよう一緒に観ることとなり、この映画をみたおかげで帰りに赤ワインを買って部屋で二人で飲み干すことに結果的になった。


こぐれ日記」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室