2 1999/9/13(月) 

ヴェルティゴ VS.砂連尾理=寺田美砂子 

大阪難波トリイホール/ダンスボックスvol.25

9.13.月 

また危ないところだった。トリイホールに35分まえぐらいに行ったからよかったものの、のんびりしているとぎゅうぎゅうの中(120〜30人ぐらいか)で窒息してしまうかも知れなかった。

TORII HALL DANCE BOX vol.25、Vertigo vs.砂連尾理=寺田美砂子。

砂連尾というのは本名で兵庫県の峠の名前かにあるらしい。ヴェルティゴがワークショップを多くしていることもあって、ダンスワークショップに関心のある人の顔が見られる。それに砂連尾さんらの活動の広がり(中京青年の家などでのワークショップなど)とがあいまったことなのだろう。

公演は客入れに時間がかかり(前に列を増やしたりした)、19:43から。
終了は20:45。
休憩の後にトークセッションして21:32。
トークのなかで、どちらもデュオなのだが、今日は踊らず振付をしたり、アドバイス(解釈)をする第3の人がいることが興味深い点。

また、ヴェルティゴの3人が松山でワークショップをして、「松山の子どもたちが素早く振付を記憶して反復できるのに驚いた。でも逆に、それぞれが自由に踊ることが出来ないことは、イスラエルの子ども達とは違う所だ」、という内容をアディが話していた。ダンスを学校教育の現場に持って行くと、教師の方も経験がないからとまどうだろうし、日頃の体育としてのダンス指導とはえらく異質だったりするだろうから(これは久光さんにどんな状況だったか、聞いてみなくちゃ)。

初めはヴェルティゴのアディ・シャールとリナ・ヴェルトハイムのデュオ「VERTIGO」。

振付はアディとリナのお姉さんのノアによるもの。アディが上手にいて、飛行機を真似ている。イスラエルの言葉なのかとても早口で何やらしゃべっている。ぶーんぶーんと子どもがパイロットになって遊んでいるようでもあるが、実は悲愴なことを言っているのかも知れない。

下手にドア。リナのシルエットが見える。ドアが開いて彼女が入ってくる。二人の接触は小気味よく速い。濃密な体のコンタクトにも見えるが、サーカスのような型を持って対応したり、武道を模倣したりしながら、二人の対話は続く。

リナの胸の前で実に速く交互に腕を上下して擦する様が特徴的。かゆいのではないがある苛立ちか躊躇なのか。鉄砲のさまや具体的な行為のなぞりがあって、内面を深く掘りさげるタイプの踊りではない。

最後に、初めとは別の形の飛行機的運動、つまりリナを飛行機のようにまわすアディがある。10分ちょいぐらいか。

砂連尾理と寺田美砂子による「Untitled 」--new version--は、昨年、ギャラリーそわかの奧の部屋で、一連の企画の一つとして見たもの。NHKの朝の料理番組の音声の一部始終が小さくなったりはするが流れていたり、フーガの解説(ピアノでバッハの平均律をサンプルで流したりするもの)のFMラジオなどは、馴染みがある。30分ほどか。

今回は、アレキサンダーテクニックを砂連尾理に教えている芳野香が、ムーヴメント インタープリテーション アドバイザー(動きの理解/解釈助言者?って面白いけどなんだ?)として入って、第3者の眼を通しながら、初演を再構成し、即興(即興が、アーアーという歌が始まり二人がコンタクトするところだった、ということはトークで初めて分かる)を入れたりする作業を繰り返した、という。

実際の物や踊りの体、その動きは余り全面に出ていない。割と嫌いじゃない映像だが、背面に動く映像が多くなるからだ、そんな変化は少し淋しい。でも動きが前よりなめらかに滑らない分、カタルシスへと流されない意思がはっきり感じられる。

椅子が二つ、小さなテーブル。二人がどんな距離で座るのか。常に動かす。位置も向きも。後ろに映像。皿に写真が入っている。ぎざぎざに変わる映像。体の一部が映っている。ダンスの断片が食されているような。

テーブルに花。顔をつける。微妙な距離。まだ二人は物理的には接触していないことに気付く。ヴェルティゴとは対照的な「間」。筋肉質とグラマラスボディのヴェルティゴと対照的なスレンダーな油の取れた二人。バターライスと混ぜご飯の違いのような(映像ではスパゲッティやケーキも食べられるわけですが)。

常にモデラートのまま。必要以上に遅くしたりデフォルメしたりしない動きはもちろん「日常」ということを十分察知させるのだが。それに、食事や歩行、写真を見るために寝そべる。花瓶に趣味のいい置物(でも乳牛って変だけど)。トマト?ジュースの入れ物。

闇の直前に、初めて女が男の腕にぶらさがる。愛情いっぱいな様子とは正反対に、だらりと。次はフーガの解説。ユニゾンのシーン。これは見た覚えがある。でもどこか鮮やかに合っているという印象をぼやかしているきらいがある。すりガラスにあえてしているような。

闇のあと、ケーキが潰され皿からなくなる映像が逆回しになる。男は写真を見て寝そべっている。おんなが踊る。また闇。

二人がやっと同じように向き合う。らーらーという声の音。やっと接触が始まる。切ない気持ちは溢れそうになっているかも知れない。が、どこか柔らかにモデラートの基調を塗り替えるまでにはいかない。

二人でつかれてぼーとしている。その終わった後のぼーとしてる状態の方を大切に提示したいようにも思える。赤いジュースを二人で飲む。からたちの花が咲いたよ、の戦前のレコードのようなテノール。そのうち、闇。

また、ヴェルティゴ。「Contact Lenses」。同じリナとアディの二人のデュオ。振付はやはりノアとアディ。

二人は黒い衣裳(前のおしょうゆな二人のキナリぽい白とはこれも対照的)。後ろに映像。その映像とはノアとアディの同じ振付場面の練習(あるいは創作)過程のもので、いまの踊りとオーバーラップされる。

ダンスの一回性とか完成とかを少し揺らがせながら、それでも、横からの強烈な光の放射のなかで、すばやいダンスを踊る。接触よりも平行して交わらず、逆に映像との関係、変な三角関係を思ったりした。ダンスと映像はじっくり考えるべき大きな課題だと言うことは確かにそうだわ。


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