Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》figurative sense

109.
7/5(水)
『展覧会フィギュラティヴ・センス』京都芸術センター

不思議なものだ。京都芸術センターも3度目になると、初めの違和感はかなり減っている。北側のギャラリーへの導線が分かりずらかったりはするが、図書室や資料室は無料で使えるから助かるだろうし、打ち合わせなども校庭の椅子に座ったりして結構無料で活用するアーツ関係者が増える(京都の中京青年の家や大阪は森ノ宮のプラネットステーションのように)だろう。

ふと、前にミュージアムシティ福岡やモダンde平野であったアーツ自動販売機(みんな500円というのがよかった)があったらいいなあ、と思う。インディーズCDとか戯曲とかも販売機にあって・・。

おっと、脱線。

松尾恵の企画による《『展覧会フィギュラティヴ・センス』・・・それらは「仮想現実」ではなく、彼らにとっての現実描写。in the figurative sense:比喩的な意味で。》うーん。題名は少し難しい。figureというのは「1.数字。2.合計。3.形、かっこう、外形。4.人の姿、人影、容姿。5.目立つ姿、異彩。6.人物、大立者。7.画、画像、彫像、似姿。8.象徴、表象。9.図柄。10.図解。11.比喩。12.言い回し、誇張、うそ。13.音形。・・」と英和辞典にある。比喩という意味は容姿とか似姿ということから生まれてきたのだろう。

それは、展覧会場(まず南ギャラリーへ行った)に行けば何となくではあるが、題名の指し示すことは分かってくる。つまり「具象作品」であり、見えないものを自分で見ようとするための作業をしている5人の30代前半の男たちの展示である、と。

入って手前には、法貴信也の「ラクガキと絵画作品の間にある素朴な欲望」がひょいひょい描かれて並んでいる、そんな印象を持つもの。どこかで彼のキャラクターが自分にも刷り込まれていて、ラクガキを街角で見たときの異物感は余り感じられない。それより、水玉やカエルのキャラとかまた新たに刷り込まれるのもまた楽しいと思う。いっそ、来た人のラクガキコーナーもあってもいいようにも思った。

隣に長谷川博士の写真作品。彼自身の背中の写真である、というものは解説のペーパーを見ないと全然分からなかった。でも、細長い長方形に切られることにより、抽象化を極めて自分の表層の一瞬をつなげる、という作業が明解。一円玉の写真、というのも解説がないと分からない。ルービックキューブになった指や手のひらは、まあ2つの経験があったので、自力でたどり着けたが。

市川靖の「気象図」と「星図」。ヒントは、味覚を視覚に入れ替える、というから、食品かなあ。

岩崎正嗣の「コンピュータ加工がほどこされた自画像」は、ストレートながら、自分への切り込み度は一番強いものがあった。顔がまんなかでずいーんと引き延ばされて、何だか分からない「ノイズ」になっているというもの。マンガの「寄生獣」のキャラクターを思い出した。そうか、まんが、というのも、フィギュラティブなものなのだな、といまごろそんなことを思う(法貴信也のところで、鳥獣戯画がひっぱりだされていたじゃないか)。

少しうろちょろして、1階の北ギャラリーに入る。誰もいなくて、エンドレスで大きな映像が流れて(走って)いる。高嶺格が、岩崎正嗣と一緒に創ったビデオ・インスタレーションは、みたことのない風景への興味だという。確かに、新幹線の後ろにずんずん取り残される日本の今のありふれてちゃっちい風景をこのようには見たことがない。

新幹線車両の後尾にどうつけたかはまったく不明なリクライニングシートがあって(もちろん合成だと言うことは、その画像の荒さとかで分かるとしても)・・・。その斜めのベッドになぜか女性が寝て、風がぐんぐんワンピースを翻し、パンティを浮かび上がらせ、時にブラジャーも見える映像。もしこんなことをほんとにしたら、もちろん、大騒ぎ。

レイプじゃないけど、まずはどきりとさせつつ、これが芸術映像だよと安心させて。その後でじとりじっくりパンティの黒ずみや皺へと凝視する「自分の好色の目玉」を不安定にローリングさせる代物である(そんなに自虐的になったわけでないにせよ)。

実は今日はお仕事で大阪、神戸に出張で、その帰りある空しさを抱えて半酩酊状態でこの展覧会に足を入れた。けれど、この元明倫小を出てきたときには、俗っぽい世界での空しさは現金にも跡形もなく、爽快な空気がまた自分にやってきた、だから、このセンターへの印象もよくなったんだ、きっと。

昔、平田オリザ(演劇創造者)が、仕事に草臥れたサラリーマンが癒してもらおうと小劇場空間に来て自分の芝居を見て欲しくない、と言っていた。

けれど「癒される=忘却させられる」というのではなく、知らず知らずに凝り固まった見方感じ方のパタンをアーツ遭遇によってひっくり返してくれることによって、自分の中に隙間ができるということ。

つまり、「草臥れストレスが溜まっている人にもアーツの有効性を試してもらえるのではないか」と自分のことに照らして思ったりする。



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