Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》matsuri no kizashi
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アートコンプレックス1928でダンスを観たあと、京都市バスで北へと上り、アトリエ劇研へ。実はダンス公演でかなり自分が疲れていたことが分かったので心配になり、洛北高校前のブラジル料理パールバーでコーヒーを飲んだりする(少し元気になってよかった)。
魚灯〜ユニット公演〜『祭りの兆し』。18:04〜19:49。
作/演出:山岡徳貴子(劇団八時半)。
照明/神田直美。初めも終わりも多段階に照明が変わる(柱を部分的に照らしたり)のが印象に残る。たとえば、ラストの「にこちゃん大王」(新しく御神体として光弘にいちゃんが70万円で作ってもらってきたのだけどどうも間が抜けている)の頭部像に光が当たっていてそこが今度は影になるシーン。
音響/狩場直史。初めの子ども達の遊び声。終わりの公園で遊具遊びをする声と道具の音。美術も音響も、失われた(いや5人には存在し得なかった)楽しい少年少女時代をクローズアップさせている。
ここで集団生活していた子ども達は実際の公園では苛められ気持ち悪がられて遊べず、こっそり公園の砂場の砂をここに持ち込んだのだ。煉瓦は宗教共同生活施設の何かの残骸。そこに飲まれなかった自殺用の睡眠薬が埋められた(子どもたちが全部は飲まないように内緒で隠した)という。
この芝居のタイトル「祭り」は、1985年、50数名の信者の集団自殺によって廃止されたはずの、新興宗教集団「タイシ(漢字で聖徳太子の「太子」のような気がするが)会」が1年に1度行っていた「大祭」のことを指すのだろう。
教祖太子がノイローゼになって自殺に追い込まれたのだが、子ども達5人は致死量に達せず生存。実は、晴江(辻美奈子)と朋子(桝野恵子)がこっそりと図って、死なないように全部は飲まなかったのだ。
朋子以外の4人はいつしか、この会の住まいに戻ってしまっている。そして「血」だと晴江は言うが、信仰を始めてしまってもいるのだ。
晴江が教祖、でも修(樋口真)は、声を変えて「公安」(調査庁)へ通告をしている、集団自殺が図られているようだ、と。
修のガールフレンド麻紀(三宅奈津子)がピクニックに誘う冒頭。高校生の寛子(森崎めぐみ)が、赤い口紅を塗って学校のボーイフレンドたちと会いに行こうとしている。
この軽快なコミカルさを持つ始まりが後半の展開と対照的。麻紀の片思いは入会そして集団自殺阻止のための強迫、そして自分も一緒の崩壊へと進んでいくのだ。
観光客を装って入ってくる公安の坂崎(武田暁。サカザッキンと呼んで欲しがっている)の、だささ。それは意図的だと思うほどな「フレンドリー」の装い方。
結局は、自発的な事故の防止にことごとく失敗してしまうのだ・・。
最後にはどんな素振りをとっても明るく装えない哀しみが、深くてやるせない。
寛子のお兄ちゃん、光弘(葛西健一)のどこか間抜けた感じも味。
妹への執着、晴江には従う。幼少の記憶だろうか。
一人信仰に入れない朋子が、最後に、二階へと上がるシーンは、絶望の予期が9割を占めつつも結論は出さない。
本当に、一度その特殊な社会に染まってしまったら脱出は不可能なものだろうか。
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