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78.

4/18(火) 
アッバス・キアロスタミ監督作品『風が吹くまま』京都みなみ会館

京都みなみ会館、アッバス・キアロスタミ監督作品『風が吹くまま』The Wind Will Carry Us。1999年、フランス・イラン合作、118分。

その映像のめくるめく広がり。白い村、黄金の畑、草原、墓のある丘、曲がりくねる道、の向こうから聴こえる音、挨拶の言葉(祈りの言葉が挨拶に替わっている)。

音楽はラストと、穴を掘っている顔の見えない若い男が歌う歌だけ。その代わりに溢れる詩。イランの女性の詩人の言葉を、その男の恋人の娘ゼイナブに届ける。

《緑のあなた/思い出に燃える手を、私の手に置いて/命の温もりにあふれる唇を、/私の恋する唇に重ねて(この時ゼイナブがもう牛乳は一杯になったと主人公に言う)風が吹くまま(「一杯よ」とゼイナブ)心は風のままに》

吹きすぎる風。ゆっくりとでも忙しく生活し働く人たち。自然の余りの深さに呆然と言葉を失う。でも、美と永遠の相(すがた)だけがあるだけではない。この映画には、非常に俗っぽい主人公のTV男の苛立ち。人の死を待ちそれを撮して放送するのが仕事であることの傲慢さ。

現地の夫婦の言い争い。がっしりと固定した男性中心社会。儀式の当事者にとっての不合理さ(哀しみを現すために自分の顔を爪で引っかくのがここの葬式の特徴の一つなのだそうだ)も生々しく存在する。

だからこその美しさ。生死についての、そっけないほど死の近くにある「思考」。

オーバーヒートしそうで、いらついているのは、TVディレクターのベーザード(映画の主人公)。本名もベーザード・ドーラニー。登場人物中、唯一のプロだが撮影のクルーとしてのプロ。で、カメラテストをしたのも彼だけ。

ベーザードはクルド系の電話も通っていない僻地で、葬式をドキュメントしようとやってきたのだ。

その葬式の様子をなかなか撮すことができない。死にそうだ、と情報を受けてやってきたのだが、その老婆の孫のファザード(キアロスタミに出てくる子どもはどうしてこんなにきれいな目をしているのだろう)の話によると、少しスープを飲んだりしてるのだ。

連れてきた撮影隊の方も2週間も待機させられて帰りたがっている。機材を借りている人からも再三携帯電話が鳴る。

そう、携帯の電波もこのシアダレ村(シアダレとは黒い谷という意味だが、陽光に白く輝く壁のモザイク状の集落が美しい)には届かない。墓のある丘に上らないとしゃべれないのだ。皮肉にも、ある若い男が掘っているのは電話のためのよう。村の人は電話など必要ないと思っているようではあるが。

ファザードがベーザードに切り返すやりとりが面白い。ずっと好意的だったのに、苛つくベーザードにどやされてからは、彼の車に乗ることを頑なに拒否するファザード。ファザードは賢い。ベーザードが自分のお婆さんが亡くなることを待っていることを知っていても(村の人たちは電話技師だと思っていたりする)、取り乱してはいない。でも愛するお婆さんが死ぬことはつらい。

ベーザードにしても妻の親戚の葬式にも出られずここで葬式を待っていることの矛盾をひしひしと感じている。彼の心は、お婆さんを愛している孫のファザードへ向かっている。

亀にやつあたりするベーザード。周りの小動物や糞ころがしが撮される。黄金の畑風景だったので秋かと思ったら、牛の交尾が突然起きるのだから、春なのだろうか。どちらにしても雨の降らない晴天が続く。が、乾燥した世界ではない。所々には大きな木。

色々書くべきことはあるかも知れないけど、もう一度観る方がずっと大切だと思う映画の一つ。

(強く心に残ったことだけを記すと)カメラを拒否していた女たちの最後の姿をただ撮すベーザード。そのベーザードから牛乳代をもらった母に対してそれを返すように言う若い男の恋人の芯の強さ。つまりベーザードから美しい詩の言葉を彼女はもらったのだから、お金はいらないと言うことだろうと私は確信する。学校に通っていることとは別個の高い精神性。

そして、彼女の恋人が穴に埋もれる。すばやく救援を周りに求めるベーザード。これで葬式のシーンが撮れる、なんて功利的なことは一瞬たりとも、ベーザードの頭をかすめなかったのだろう。が、私の頭のなかだけに、彼が死に若い娘が顔を傷つける葬式の様子がさっと幻として挿入されてしまった。


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