「超私的 先週観た舞台からの贈り物」
先週は、縁あって、5夜連続で公演を観にでかけました。
銀幕遊學◎レプリカント
開場開演が同時刻で、終演後の挨拶にも出演者は登場しない。つまり、観客が目のあたりにする光景は、すべて演じている空間、演じられている舞台だけとなる。公演を楽しみに来た観客に入場後、日常=下界の出来事を思い出させたり、余計な詮索をさせず、すうっ〜と心の中に入り込んでしまおう、なんの憶測も与えることなしに公演を観て聴いて感じてもらおう、そういう意図だったのではないかと思う。アレッと思う間もなく、パフォーマンスが始まった。見えない「糸」をつまみながら、前へ前へと進む5人(女性)。設定は月面、いや、生命が存在する、とある星なのかもしれない。見えない糸に操られる人生、赤い糸で結ばれているといわれる男と女、電話線、携帯電話の無線、首を閉める道具=紐、縄跳びのロープ・・・見えない「糸」は登場人物たちの手によって、さまざまな用途の「糸」へと変貌していく。いずれも単独では存在しない「糸」。現実に戻って、人間関係の危うさ、もろさ、はかなさを表現しようとしているのだと、僕は感じた。危うさを細い「糸」にみたてて演じるシーンなら今までにも、ある。でも、この作品はコンセプチュアルなテーマをひとつに絞って、それを展開されていく。表現し続けるおもしろさ、苦しさを知っている人の作品だと思う。おもしろかった。次回作も観てみたい。
岩下徹「IMPOVISATIONS・5」初日
円形の会場内には、離れ小島のように客席がランダムに配置され、その客席の形も四角四面ではない。自由なままに音を聴き、踊る。インプロヴィゼーション。即興とは違う、開放感がそこには存在し、その開放感を観客と共有したい。創出したい。そういう願いが、この客席の配置にあったのではないか。僕は、場内に入るなり、この策略にはまってしまったのかもしれない。無邪気な子どもになったり、苦痛に押しつぶされそうになったり、踊り手・岩下徹の目の前に何かが写し出されている。共演は、笙とターンテーブル。古代と現代の悠久を奏であったこの二つの楽器とともに、岩下徹もまた、悠久の世界を彷徨っていたのかもしれない。観客に強いることのない公演。
演劇企画集団THE・ガジラ「tatsuya─最愛なる者の側へ」
1968年秋、当時の日本を震撼させた19歳の連続射殺魔・永山則夫を題材にして作られた作品。主人公タツヤの家族関係やバイト先での冷遇ぶり、悪い仲間たちなどが描かれ、やがて場内に銃声が何発も鳴り響き、4人の被害者が次々に殺されていく。逃れることのできないシチュエーションを役者に提示し、演じるのではなく、その役の人物になりきることを要求しているかに思える鐘下演出。前作だったか、「女中たち」に出演した女優3人の演技には、まさに鬼気迫る迫力があり、観る者の心にその怨念が波動となって伝わってきた。だが、今回は・・・。「貧困」と「無知」がもたらした犯罪だといわれたこの事件の真相を明かす、というのが目的ではないにしても、タツヤの殺しが、快楽としかとらえられなかった。兄弟からも厄介者呼ばわりさえ、いじめられ、やすらぎの地のないタツヤがこうしたやりきれない思いから解放されるために、人を射つ。まるで、バイオレンス映画のように。殺人=快楽。もしかすると、演出家の意図するところは、この乾いた殺人の怖さなのかもしれない。だとしたら、キャスティングの妙でもある。いずれにしても、1991年、28歳の時にこの作品を書き、芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞した鐘下辰男という人は、やはり並ではない。
燐光群「トーキョー裁判1999 ACT1〈解体〉ACT2〈航海〉」
1987年11月、世界中が騒然とした大韓航空機爆破事件の犯人「真由美」こと金賢姫を題材にして作られた作品。世田谷トラムの客席が取り払われ、劇場内に大きな船首部分の船底が出現する。観客は初め、船首部分で話のなりゆきを観察し、やがて左右二手に別れて、船の外側にまわり傍聴する。社会派の正統派演劇だと思っていた僕からすると、ちょっと異質の芝居であった。酒に溺れることしか救いの道を見出せない弁護士、議事進行ができずうろたえる裁判長、東条英機、船が沈没しそうになっても乗船しているスリの女に妻の面影を追い求め、女を捜す船長・・・。はたして、父親殺しで罪を問われた「真由美」に、どんな判決が下されるのだろうか。リーダーを失い、航海不能となった船の行き着く先は、いったいどこなんだろうか。進む航路を見間違い、迷走した結果、戦争という荒波に飲み込まれていった昭和の日本。日本は、もう二度と同じ過ちを繰り返さないだろうか。「トーキョー裁判1999 ACT1〈解体〉ACT2〈航海〉」は、東京=日本のあるべき健全な姿、自浄能力を問うているのかもしれない。
Beans「改訂版 いつでもどこでも誰とでも」
とても懐かしい喜劇の笑いに、劇場が包まれた公演でした。で、この芝居を観て何を思ったか。大切なのは基本。演出の基本、脚本の基本、演技の基本、発声の基本などなど。先日取材させていただいたラサール石井さんは、公演プログラムに、喜劇は日常から非日常へのジャンプと、非日常から日常への着地のタイミングが肝心で、その呼吸はすべての芝居に通じる、というようなことを書かれていますが、僕も喜劇=コメディは、すべての劇の基本ではないかと思います。演じる相手との呼吸、ボケとツッコミ、セリフのかぶせ方、すかし方、つかみ、お客さんの笑いのタイミングをはかって次に進む間の取り方、など、役者同志、または役者が観客という、話を聞いている相手がそこにいることをしっかり意識してコミュニケーションをとっている。それが喜劇なのではないか、と。こうした目に見えない触覚が役者の技量であり、シリアスな舞台で沈黙の演技や、サスペンスの劇で怒鳴らない怒りの演技などを可能にしていくのではないでしょうか。役者がこの触覚をしっかり身に付けていれば、ジャンプも着地もタイミングを外すことなく、劇場全体を自分たちの流れに引き込んでいける。照明や音響効果、舞台装置・美術など劇的空間の強力な助けを借りることなく、観客の脳裏に演技=感動を焼きつけることができる。感動は、演じる人たちから伝わるもの。コミュニケーション。女優3人組Beansの「改訂版 いつでもどこでも誰とでも」が、日本全国津々浦々に、元気と笑いを振りまくことができれば、きっと日本は明るくなる。と、さまざまな願いをこめて。
書き手も、読んでくれる人がいることを意識して書かなければいけない。それが、書き手の基本かも。自戒。
「らんだむスケッチ」の扉へ
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