Arts Calendar/Art's Report site/《Report from TABISAKI》04/1/28

万国文化中心報告 vol.98

●2004年1月  <その2>

財団法人地域創造●演劇制作ネットワーク「だれか、来る」

 世田谷パブリックシアターで幕を開け、びわ湖ホール、宮崎県立芸術劇場、とツアーが進行中です。前回のレポートに「ハードとソフト、そしてヒューマン」なんて簡単に書いてしまいましたが、この問題、つまり「仕事に対する熱意の源泉を何処に見出すか」という自分自身に対する問いかけでもあって、実のある濃い旅日程に感謝しています。劇作ヤン・フォッセ、演出太田省吾。約100分の演劇です。
 全8館の共同主催の体裁で制作が進められています。稽古場提供と初演までの立ち上げに世田谷パブリックシアターの制作部と技術課が全面的に協力、以降各館の技術サポートと制作が本隊と個別に対応しながら公演日程を進めて行く仕組み。さまざまなモティベーションの持ち主と出会い、でも皆さんが公演の成功に向けて精一杯努力している様には、普段の塾旅で味わう感動を凌ぐものがあります。

 一口に劇場とは言っても、それぞれの建物+運営+組織による「地政学的」な意味あいは全く異なるので、今回のような「演劇のための演劇」の上演準備については驚くほどに各館ごとに味わいの差が出てきてしまうのであって、それがそうした感動につながるんですね。こう言っては何ですが、所謂山海塾は「色物」的扱いなのだということも、自ずから肌合い的に感ずることとなります。・・勉強させられますね。
 なんのための建物か、だれのための運営か、どこのためのの組織か、というような事は関わりのある人たちの間でもコンセンサスの取りにくいんだとは思いますが、この3つは外部からでは尚のことクッキリとは見えないです。それが「演劇とは何か」みたいな大きな命題の解決の一試行として企画された出し物に相対すると、じわじわとあぶり出しのように各館の「演劇観≒劇場観」が浮き出てくる訳なんでした。

 余談になりますが、演劇ってのはやっかいなもんですな。言葉を使うがために俳優の発語とその内的背景は問われ、その背景に応じて舞台美術が視覚を提供するものの、この視覚はさらに観客の内的風景に訴えかけ、こうした相互作用を起こしながら作品の描き得る世界が果てしなく拡がっていく。文化文明を支える「言葉」が素材料となっている分野ならではの迷宮的構造は、場合によっては全く地獄です。
 上手くまとめられませんけど、私たちの住む町での私たちの暮らしと気持ち的に一線を画した場所に舞台劇の人間関係はあって、舞台の鑑賞中はその一線の幅や濃淡、色のにじみ具合や揺らぎ方を確かめながら話の筋を追う、ようなことでしょうか。それだけに客席と舞台の具体的な関係性を極めてしっかりと技術的に構築しておかないと駄目なので、音響や照明が(勿論美術装置も)どんどん繊細になる。

 箱物と一まとめに最近では語られがちですが、劇場という何かを収めた「建物」は簡単な「箱」の概念では把握できない種々雑多な要素で成り立っています。それらの擦り合せの結果で散らかった現場を即ち「劇場」と呼ぶのではないかと個人的に考えるには至りましたが、ではその中で行われる「何がしか」を段取りして集客し、成果へとつなげていく努力のことはさて何と呼ぶべきでしょうか。
 直感的な言明で恐縮ですが、それもまた「演劇」と呼ばれている気がします。あるいは「芝居」と呼んだほうがそのニュアンスが濃厚かも分かりません。いずれにしても劇場と言うと、そうした(演劇なり芝居なりの)人と人との関係を整理して、一つの作品を限られた空間と時間の中に成立させていく場所の感じが出ますよね。会館とかホールとはその雰囲気がぜんぜん違うんです。ぼくにとっては、ですが。

 演劇を大事にしようとするトップの姿勢は、きっと現場の隅々にまで通りやすい。声と言葉をきちんと聞くこと・顔の表情をちゃんと見ること、相手と自分の関係をしっかり取り結ぶこと、これらはお行儀そのものですから抽象的な精神論にはなりにくい。もしかしたら、ですが、演劇に触れ芝居を学ぶのは、劇場人または舞台人に必須の教養を身につけると同義、ということになりますか、ね。

(2004/1/28)


岩村原太の「万国文化中心報告」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室