展覧会寸評
東京国立近代美術館工芸館 「工芸オブジェの系譜」展
地下鉄東西線の竹橋駅を降りると、緑豊かな北の丸公園が広がります。いつか行ってみようとずっと思いながら、一度も訪れたことのなかった東京国立近代美術館工芸館。横浜美術館で「世界を編む」展を見てから、絵画や彫刻とは異なる造形美の「工芸」が気になります。新聞で紹介されていたこの展覧会、「工芸オブジェ」って一体なんだろう?「工芸家は、なぜ、用途のない作品を作りはじめたのか」という刺激的なタイトルに惹かれて、まだまだ暑さの続く夏の一日、北の丸公園に。
増改築のため休館中の東京国立近代美術館と、国立公文書館の前を通り過ぎ、しばらく歩いていくと赤いレンガ造りの建物が見えてきます。明治43年(1919年)に近衛師団司令部庁舎として建設されたものだそう。昭和47年には明治洋風建築として重要文化財に指定されたというその建物は、静かに「工芸」に対峙するのにぴったりな落ち着いた雰囲気です。重いドアを押して足を踏みいれると、一瞬、ひやりとするほどの静寂。
内部の階段や広間などは当時のまま保存されているということで、軍服姿の男性が階段の上にすっと姿を現しそう、そんな魅力的な空間です。
さて、展示室へは廊下のドアを開いて入り、まず壁面のパネルを丹念に読むことにします。「ここでいうオブジェとは、工芸の伝統的素材や技法を使ってつくられる、用途をもたない造形作品のことです」とあります。確かに、「工芸」が純粋芸術としての絵画や彫刻と決定的に異なるのは、その「実用性」ということなのでしょう。生活の場にあって、人の用を受け持つのが工芸だ、ということ。
そうした工芸品を「実用の束縛から解放させる」企てを、1920年代から現在に至る作品でたどるのが今回の展覧会ですが、実用に徹するのか、芸術へと脱出するのか、工芸家の深い思索と、鋭い衝動がそのまま形となって結晶している。そんな印象を受けます。
というのも、どの作品にも共通して言えるのですが、使われる素材や技法そのものの魅力が、決して作家の主観的な主張に呑み込まれていない。例えば高村豊周の「青銅花瓶」(1926年)という作品は、確かに「鑑賞」を意図したものではあるだろうけれど、「花瓶」という機能を併せもつ形体としてとても美しいのです。越智健三の「黒い花器」(1958年)という作品もまた然り。その姿はまるで他者を寄せ付けないような鋭敏なフォルムを持っているけれども、「花器」として機能したときに一番その魅力を発揮するのではないか、と思えます。
そして私が一番惹かれたのが、「工芸オブジェの先駆的存在」という杉田禾堂の「用途を指示せぬ美の創案」(1930年)という作品です。ガラスケースの中に三つの金工オブジェが整然と並び、「完成期、原始期、過渡期」というタイトルがその形体を説明しています。確かに、これは「実用」からは程遠いかもしれない。しかし、絵画や彫刻のようにその存在自体がなにかを主張しているものとは思えない。ふと、これは「置物」という機能を完璧に果たしていることによって、作家の想いが伝わり、これほど美しいのではないか、と気付きます。
ほかにもガラスや、漆工、染織、さまざまな「工芸オブジェ」の美しさ。人の手が生み出し、そして「器物」の世界と深く共鳴しあうその在り方は、「美」を置き去りにしたまま疾走する現代の造形表現に、ひとつの方向性を示唆しているように思えてなりません。
九段下から神保町の古本街をぶらぶらしてから帰途につきます。思いがけない掘り出し物に時間が経つのを忘れ、ふと薄暮のせまる時間が随分早くなっていることに気付きます。そろそろ暑かった夏も終りを迎える気配です。
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