作家 辻邦生氏の遺したもの 「十二の肖像画による十二の物語」

7月29日、敬愛してやまない作家の辻邦生さんが亡くなったという新聞記事に接して言葉を失いました。高校生のとき初めて読んだ「背教者ユリアヌス」以来、ロマンの薫りがあふれる芸術性の高い小説の数々、「春の戴冠」「フーシェ革命暦」、最後の長編となった「西行花伝」などなど、その圧倒的な美の世界から受けた影響は、私にとって決して小さいものではないので、こころの中にぽっかり穴が空いてしまったよう。哀しい、哀しい。

1961年、フランスに留学していた辻さんは、「文学の根拠はどこにあるのか」を求めて彷徨を続け、ギリシャのパルテノンでその「美の大いなる秩序」に圧倒された、という逸話をくり返しエッセイで書いています。ルーブルの橋の上で、「私の世界」というイデーを発見した、とも。「私の世界」とは、この世界が自分と対立するものではなく、「世界が私と一つで、森羅万象は私なのだ」ということだ、と説明しています。そしてリルケの薔薇の詩を読んで、「美のひとつひとつがそれぞれに絶対の美の現れだ」と発見した、とも。

1994年刊のエッセイ集「生きて愛するために」に、この3つの啓示に関して、「共通するのは、われわれの生の根拠につねに美が存在し、それが生のすべてを包んでいる」のだ、という一節があります。「美とは、幸福とは、いまここにある。・・・それが私の文学の中心の仕事となったといえるかもしれない」。

私が、世の中は美しいものであふれていて、生きるということはそれら美の中で呼吸をすることと思っているのには、こうした辻さんの小説やエッセイから受けた影響が少なくないのだ、とあらためて思い至ります。いろいろなメディアの追悼記事を読むと、読み返したくなる本があまりにたくさんあって、何から手をつければよいのか、少々頭の痛いところ。なにしろ「背教者ユリアヌス」も「フーシェ革命暦」も大変なヴォリュームの大著で、ここでストーリーを紹介するだけでも容易なことではありません。

そこで、暑い夏の日の午後、短編小説というよりは掌編小説と呼ぶにふさわしい、何冊かの美しい本を読み返すことにしました。

「十二の肖像画による十二の物語」。十二枚の中世(15世紀〜17世紀)の肖像画が選ばれ、ひとつひとつに「妬み(ねたみ)」、「傲り(おごり)」などの題がつけられて、短い物語が展開します。十二編すべてに共通するのは、どこか暗く、湿った恐ろしさ。美しい女が秘める残忍さや、傲慢な男の意外な小心さといった、肖像画の奥にある「闇」の部分が私たちの目の前に姿を現すのです。

第八話「驕り(たかぶり)」は、ブロンツィーノの『ラウラ・バッティフェルリの肖像』がモチーフです。その美しく気高い横顔の女性は、自らの詩作のために何人もの男を犠牲にしてしまう。なぜなら、恋というこころのたかぶりが詩を生む、と信じているからです。そして若い恋人アルベルトとの争いのあと、自らの詩の象徴である蝶の大群に押しつぶされる悪夢を見て、詩よりも真実の愛に目覚めるのですが、その時すでにアルベルトは自らの命を断ってしまっているのです。そしてラウラはひとりの男の死を悼む美しい詩を詠んだあと、筆を断つ、という物語。一枚の肖像画が生む、イメージの世界が、深くひそやかにこころに広がり、蝶の大群のおぞましい映像がいつまでも頭から離れません。

ダ・ヴィンチやポライウォーロ、バルトロメオ・ヴェネトなど、現代美術に目が向きがちな私の目にはそれだけで美しい十二枚の肖像画は、しかし、世界のどこかの美術館で出会った時、人間のこころに潜む恐ろしく哀しい十二の言葉を思い出させずにはいられないことでしょう。美しき世界を信じた作家は、こんなにも残酷な世界を読者に提示することも忘れてはいなかった、という真実。

「鬱ぎ(ふさぎ)」、「妬み(ねたみ)」、「怖れ(おそれ)」、「疑い(うたがい)」、「傲り(おごり)」、「偽り(いつわり)」、「謀み(たくらみ)」、「驕り(たかぶり)」、「吝い(しわい)」、「狂い(ものぐるい)」、「婪り(むさぼり)」、「誇り(ほこり)」。

読み終えた夏の一夜、やはり十二の掌編小説からなる、一枚のCDとセットになった一冊の本「楽興の時」を手にとってみます。この本も、短いクラシックの曲やパート部十二曲からイメージされる物語で構成されていて、それぞれ花の名前がタイトルになっています。例えば二曲めのタイトルは「水仙」。曲はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ〈春〉。六曲めは「アネモネ」。曲はサティの〈グノシエンヌ〉、というように。この本が私たちに与えてくれるのは、タイトルの通り、美しく、優雅で時に官能的な世界が音楽と共に展開される幸せな時間。

フォーレのレクイエムで始まるこのCDをくり返し聴きながら、同じ時代に生きたひとりの偉大な作家に鎮魂の祈りを。


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