「コバヤシ画廊企画室 山本直彰展/丸善・日本橋店ギャラリー META展」

ようやく梅雨も終りを迎える気配です。少し前に紹介させてもらった日本画家、山本直彰さんの新作個展と、グループ展のMETA展が銀座と日本橋で開かれています。大好きな作家の新作は、Doorの連作の展開だろうか、それとも新しい世界だろうかと、すこしドキドキしながら、冷房の効きすぎた銀座線でまず日本橋へ。

META展の案内状には、「日本画に発した独自の表現活動により注目を集める作家達が、世代を越え新たな可能性に向けて大作に挑戦します」とあり、出品しているのは9人の作家達。98年の4月に練馬区立美術館で開催された「日本画−純粋と越境−」展の出展作家と3人が重なります。岡村桂三郎、斎藤典彦、山本直彰。99年2月の安田火災東郷青児美術館「未来を担う美術家たち DOMANI」展とも2人が重なります。

斎藤典彦と山本直彰です。他の作家たちのなかには1969年、70年生まれという若い作家もいて、まさに現代美術のシーンで「明日を担う」日本画家たち、ということでしょう。

会場に足を踏みいれると、「洋画」に対置される概念としての「日本画」は、そこにはありません。たしかに岩絵の具や和紙や墨を画材として使ってはいるけれども、その抽象表現は、「日本画」という言葉で分類することは不可能ではないか、と思わせるものばかりです。岡村桂三郎の「青龍」は岩絵の具の光をはらむ鱗模様が画面全体を覆っています。斎藤典彦の作品は、物質としての画面のその奥に、もうひとつの世界を感じさせるにじみ、ぼかしで構成されています。

そして山本直彰さんは、Doorシリーズの新作。しかし、今までにもまして緊張感あふれるその作品の前で思わず息を呑む思いです。ドアそのものを連想させるかたちを画面上に見つけるのは難しく、漆黒の画面の中央には真っ白なばつ(×)が描かれています。そして画面の下位にはやはり真っ白な、泡沫のような線条が横に走っている、無口で、鋭く、孤独な美の世界。

山本氏が滞在していたプラハでは、革命後の混乱した建築現場のいたるところで、工事中の建物の窓ガラスにばつ(×)が書かれていたといいます。否定の印であるばつが、ガラスの存在を強調しているという矛盾。そこに映る自分の姿を、画家は「Self-portrait」という作品に描いています(1993)。黒い自画像を否定する白い大きなばつ。自己の存在そのものを否定しようという画家。しかし自分を描くという行為は自分を肯定する行為ではないのだろうか・・・。その矛盾は、もろく危ういガラスが孕む矛盾と同じものなのかもしれません。

コバヤシ画廊は壁面をぐるりとDoorシリーズが覆い、ここでも、表現がより単純化され、抽象化されていることに気付きます。そして、わたしたちの前に厳然と閉ざされたドア、わたしたちが歩いてきた道を閉ざすドア。前後左右を画家の哀しいまでの孤独な真実に囲まれ、ただ立ち尽くすだけ。

この日、思いがけずコバヤシ画廊で山本さんご本人にお目にかかることができ、短い時間でしたがお話することができました。抽象画の意味を、画家本人に聴く勇気はありませんでしたが、きっとわたしたちそれぞれの受け止め方を、すべて引き受けてくれるのが画家という存在なのではないでしょうか。同じ時代を生きる大好きな画家がいるという幸せ。

そのまなざしは、思っていたよりも、ずっと優しく、ずっと柔和でした。

両展はいずれも7月24日(土)まで開催中です。

July 21, 1999 Sumitani


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