「山本直彰 Doorシリーズのこと」

今週は展覧会には出かけていないので、私の好きな現代日本画家のことを少し。

今年、99年2月に新宿の安田火災東郷青児美術館で、未来を担う美術家たち「DOMANI・明日」展1999という展覧会がありました。若手の芸術家の養成を目的に文化庁が行なう「芸術家在外研修」という制度があるそうです。この展覧会は、その研修に派遣された経験のある日本画家達の近作を紹介したものでした。

私のお目当ては山本直彰さんのDoorシリーズ。大作4点が出展されていました。

漆黒の画面に鋭いストロークの線や飛沫が刻み込まれます。

画面に描かれているのは閉ざされたDoor。
哀しいまでに何かを拒絶する、閉ざされた Door。
支持体に焦げたDoorそのものを用いたオブジェのような作品もあり、
私達に、「日本画」とは一体なに?という出口の見えない迷路に迷いこんだような思いを抱かせます。

山本氏がDoorを連作として描きはじめたのは派遣先のプラハ滞在中とのこと。

92年から93年、変革のまっただなかで、街中にはいたるところにガラスやドアが打ち捨てられてあったそうです。画家はそこで閉ざされたドアを、そしてドアそのものに自らの姿を、描き続けたのです。

私が初めて山本氏を知ったのは98年の秋。横浜美術館で開催された「社会主義以後のチェコの美術の現状」という講演会です。この講演はチェコの美術研究家のチハーコヴァ女史という人の原稿を山本氏が報告するという形で行なわれました。実は講演の内容はほとんど印象に残っていないのですが、座席が氏の正面に近かったこともあり、とにかくその鋭い眼光にしばしば圧倒される思いでした。独自に選んだというスライドと短いコメントがとても興味深く、この人は一体どんな絵・を描くのだろうと

思うとじっとしていられません。

帰宅後すぐにネットで検索、まず98年夏の練馬区立美術館「日本画 純粋と越境」展のカタログを入手しました。

そのページにあふれているのは、息苦しいほどの緊張感。

DOMANI展のカタログには氏のこんな言葉があります。

     慣習に埋もれた生活のなかで目を開くには、
     すべての愛しさを殺さねばならない。
     過ぎ去る盲目に、自身の殺傷をもって抗うのだ。
     そうして絵画自体のもつ価値、そのものへ僕は向かわなければならない。

・・・・なんて厳しい人なんだろう。どんな日常を生きているのだろう。愛する人は

そばにいるのだろうか。・・・・

これほどひとりの画家の存在そのものに心がふるえたことはありません。

そして Doorの前にたたずむ私達は、このドアは何を拒絶して、何を守ろうとして閉ざされているのだろうか、とまたしても迷路の中で途方にくれるばかり。時間がたつのを忘れて。

(99年5月現在、個展の情報は未確認ですが、氏の作品を扱っている銀座のギャラリーイッツで常設の作品を観ることができます。)


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