Arts Calendar/Art's Report site/《WADA Map》The Day

vol.91


「The Day」



-マグナムが撮ったNY 9/11-

東京都写真美術館2002.5/29〜7/7


混み合っているのに、足音も話声も聞こえない会場。そこにいて、無性に聴きたくなったのは、クリストファー・クロスの歌う「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」だった。頭の中でサビのメロディーのリフレインを流しながら、「なんで、この曲?」という戸惑いも同時にある。祈りの場のような会場の静謐さと対極にある俗っぽい歌。
ニュースで知るしかない第三者の私には、9.11この日は善悪の区別も宙に浮いたままだ。「あの場所」からは、最後の瓦礫が取り除かれ、更地になった。何もなくなり、何にもなっていない状態は、まだ終わってはいないということでもあると思う。

「Once」
ワールド・トレード・センターのツインタワーを写した美しい11枚。モノクロの写真は、殊更に無機質で作り物めいて見える。今となっては不出来な印象派の絵画のようで、お土産用の絵葉書のようで、魅力を感じない。「いつまでも、当たり前にそこにあるもの」という無意識が撮影のときにあったのだろうか。
いつも見上げているビル。美しいものを、美しく撮るためのテクニックに対しては感動するが、それ以上に感情が伝わらないことがひっかかる。9.11以前は、それでいいものだったのだ。
これらの美しい写真が、写真展の最初のカテゴリーにある。もっと感極まるか、と思ったのだけど、上記のような感想を持った。すべての写真を見終えてから戻ってみようと思う。

「The Day」
カテゴリーの入り口にカメラマンや消防士の「その日」へのコメントがある。読み、写真を見るうちに写真というもののライムラグについて考えてしまう。
対象を捉える瞬間。シャッターを切った瞬間。そこまでは「瞬間」なのだけど、現像、フレーミング、選択…という作業の時間。目の前で動いていた対象と手元にある「紙」との関係をカメラマンは、どのように整理するのだろう。

展示されているのは、(TVの映像で慣れてしまったけど)事件の衝撃を感じさせない洗練されたものばかり。消費された膨大なフィルム、膨大なシャッター音の結果、選ばれた写真が並べられているのだけど、それらばかりではなく、混乱した不鮮明な写真も見せて欲しかった。興味本位で見てはいけないと構えた気持ちも、カッコよすぎる写真に「これを見せたいのか?」と半ば呆れもする。
パームツリーのような煙りとともに崩れて行くタワーの写真など、「Once」のカテゴリーに入れてもいいほどの完璧な構図なのだ。それが、聖と俗の混沌を感じた所以なのだろう。カメラマンの葛藤が人に見せられる写真しか選べなかったのか、カメラマンのプライドが「不出来な」写真を出品できなかったのか。これらの写真を見ているうちに「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」が流れてきたのだ。演出されたもの、と私は捉えてしまった。

だが。
展示されている写真は、縦長も横長も、それぞれ1種類のサイズに揃えられている。フレームもまったく同じもの。その規律めいたものと整い過ぎる写真の羅列が、逆に写真展全体に不協和音を流している。個性を消したことで、内面に圧縮された感情のエネルギーの強さにぞっとする。

「After」
9.11その日より、後の写真にカメラマンの動揺や感情が見える気がする。タイムラグに今度はカメラマンが置いて行かれているようだ。カメラマンとしての職業意識と、市民としての感情がどちらも薄らいで透明感のある写真になっている。
「Once」の無感情とは、まるで意味の違う無表情が人々を覆う。嘆きや悲嘆のうらに、その後の世界に何かが起きる悪い予感が見え隠れしている。(起きてしまったから思うのだろうか)

中に一点、持ち寄られたキャンドルの中心にツインタワーのポストカードらしきものを置いた構図の写真があった。失ってしまった人の笑顔の写真を飾るように置かれたポストカードが、タワーの遺影のようで、なくなってから気付いた「愛しいもの」へのオマージュ。生きているものが何も写っていない、この1枚が「Once」「The Day」「After」をすべて語っているように思う。

初めに戻って「Once」のツインタワーの写真を見に行く。なくなってしまったことで、こんなに薄っぺらに感じてしまう不思議さは消えない。撮影した時の感情は、生き続けるものなのだろうか。


2002年6月22日