Arts Calendar/Art's Report site/《WADA Map》BRESSON
49,
アンリ・カルティエ=ブレッソン コレクション展
東京・赤坂 東京写真文化館
2000年8月6日まで。
開館時間 11:00〜20:00(曜日によって変動あり)
休館日 月曜日
TEL: 03-3505-2335
http://www.net.inst.or.jp/%7Etpcc(メンテナンス中らしいです。)
以前、Sumitaniさんも取り上げていたカメラマンの写真展です。
Sumitaniさんのレポートに、ブレッソンについて詳しく書かれているので、そちらにおまかせするとして。
トゥ−マッチとも言えそうに収まりのいい画面構成、映画監督が悔しがるほど魅力的な表情を見せる被写体。
1枚の写真が作品となるには、フレーミングと言って効果的な構図になるように端を切り落とすのが普通だそうです。
ブレッソンの作品は、ほとんどがノーフレーミング。つまり、撮ったそのまま、作品になる構図なのです。
そういう写真を「つまらない」と言う人もいます。
だけど、偶然や瞬間に愛された写真は、すかっとして、ふんわりと止まった時間が快い。
今世紀の初めに生れ、第2時世界大戦中は捕虜となり、ベルリンの壁、社会主義の崩壊、宗教の力、様々なエッジを軽やかに飛び越えるカメラマン。「決定的瞬間」のなかに飛び込んでゆくのではなく、そこにいるブレッソンに瞬間がぶつかり、通り抜けてゆく。
貧しい人々や傷ついた人を撮ったものもあります。それが報道写真にはならずにポートレイトになっている。写真は時を止めたものではあるけれど、その後のストーリーに絶望を感じないのです。ブレッソンのレンズに収まった瞬間が、安らかな未来の始まりのようで、明るい力が漲るようで、穏やかな気持ちにさせてくれます。
同じように「現実」を写しているのに、それが報道写真になるか、芸術写真になるかは、カメラマンの目だと思うのです。
報道写真には、カメラマンの目はレンズとして作用すればいい。写真の現実をどう判断するかは、見る側に委ねるもの。
芸術写真であるなら、被写体の持つ情報とカメラマンの感情が見るものにどんな感情を起こさせるのか。それが計算しつくされたような、本当にまったくの偶然のような、一瞬の狭間がブレッソンの写真にファンが多い所以ではないでしょうか。
会場で、何度か目にする「韻を踏んでいる」という言葉。椅子の足と人間の足の形。水たまりを飛び越えようとする人のポーズとその後ろに写っているポスターのダンサーのポーズ。他にも、いくつも。狙ったって捉えられない偶然のリフレインの美しいユーモア。
そして、立体感や奥行きの表現を押し殺しているような印象。それが、対象の存在感の大小を見誤らせ、動物も人も子供も大人も皆平等な「大切さ」で表現されているような気がしました。
展示の最後に、ポートレイト。様々なジャンルの著名人がブレッソンのレンズを見ている。その表情のひとつひとつから、ブレッソンへの親愛と芸術家同士の緊張感が伝わる。モデルになった画家のギャラリーに一緒に展示すれば、そのポートレイトも画家の作品のひとつであると言えそうです。インタビュアーが何時間かけても導き出せない「ひとこと」が写真から聞こえてくるようです。
2000年7月9日
「WADA Map」の扉へ
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