ピアニスト和泉宏隆氏のこと
雨上がりに、周りの風景を映しながら輝く水滴のような音を紡ぎ出すピアニスト、和泉宏隆氏に会いたくて、梅雨明けまじかの"音楽室"にお邪魔しました。
まじかに控えた大阪と東京でのコンサートのこと、ニューヨークで5週間にわたるレコーディングを終えたばかりの新しいユニットのこと、そしてピアノのことなど、伺ったお話をまじえつつ、ご紹介したいと思います。
和泉さんは、楽器少年、バンド少年なら(少女も)誰もが目標にする超絶技巧のフュージョンの世界で第一線のコンポーザー、キーボーディストとして16年T-SQUAREに在籍、98年始めにバンドを退団、現在はアコースティック・ピアノに絞った活動をされています。
97年にソロピアノアルバム「FORGOTTEN SAGA」を発表。アルバムのための新曲あり、以前に発表された曲あり、T-SQUAREの曲のアレンジありという内容です。アジアを旅する、温かくて、肥沃な、身近でありながら、どこか手の届かない風景を思い起こさせる1枚です。
T-SQUARE で活動されている最中でありながら、それとは全く違う音楽。ジャズでもなく、クラシックでもなく、また環境音楽というのとも違う、シンプルにピアノ。ひとりで、ピアノ1台で、こんなにも奥行きのある世界を描ける表現力。アルバムの1曲目"Songs Inside"のはじめの1音、どこまでも続くかと思うフェルマータ。たったひとつの鍵盤を叩いただけで、これほど美しい音色が広がることに涙が出るほどに感動しました。今回、インタビューをお願いしたのも、この音がどこから出てくるのだろうかという、とても単純な動機からでした。
その「美しい音色」を出すのは、和泉さんひとりの手ではありませんでした。調律のエキスパートあってこその音色だったのです。「FORGOTTEN SAGA」を録音する際、何度も何度も調律のかたがピアノのコンディションを最高の状態に保つために入ったそうです。海外の第1級アーティストにも全幅の信頼を寄せられている小沼則仁さん。小沼さんとは、以降一緒にお仕事をされているとのこと。和泉さんが毎月、東京・八重洲で行うコンサートにも、毎回休憩時間に小沼さんが調律をされています。
「FORGOTTEN SAGA」も今年5月に発表の「たからじま」というアルバムも、"ピアノ"で聴かせる曲ばかりで、その響きを生かすも殺すも調律しだい、裏返せば、調律師泣かせ。「FORGOTTEN SAGA」は調律師のあいだでも話題になったアルバムだそうです。
「たからじま」は、お話を伺った和泉さんの"音楽室"で録音されたアルバムです。録音を前に、和泉さんのピアノは小沼さんの手によって、3ヶ月かけて丹念に弦をすべて張り替え、馴染ませ、ハンマーやアクションの調整がされたとのこと。その3ヶ月間、それ以降も、小沼さんとの二人三脚の様子をとても熱く語る和泉さんを見て、こんなふうに慈しんでもらえる和泉さんのピアノは本当にしあわせなピアノなんだと、思いました。また、ピアノ、音に対する愛情の深さが「美しい音色」の源でもあるのでしょう。生のピアノの音を和泉さん自身が深く味わってしまったことが T-SQUARE 退団の一因でもあったそうな。技術だけではなく自分が正直に現れてしまうのが生の楽器の恐いところであり、まさに生きているところ。電子楽器が体を通り過ぎていく瓶詰めのミネラルウォーターだとすれば、和泉さんのピアノの音色は、ワイン。気持ちの入れ方、手の掛け方がその時々の味になり、聞き手にも様々な作用を与える個性となります。澱でさえもワインに欠かせない大事な要素。
八重洲で行われるマンスリー・コンサートには、毎回ワインが用意されています。そのワインの味がその時に和泉さんが表現しようとしている音色なのでしょうか。ワインもいい音楽を聴かせるとおいしくなるとか。和泉さんのピアノを聴きながら飲むワインはどんなふうにその味を変えてゆくのでしょうか。
マンスリー・コンサートは、いつも完成品のライブを聞かせてくれるわけではありません。その時々に和泉さんが手掛けているお仕事や、作っている音楽の過程を聴かせてくれます。そんな"途中の姿"がどんなふうに変わっていくのか、それも見てほしいとおっしゃっていました。
和泉さんの"音楽室"に伺ったのは、とても暑い日の午後でした。コンサート目前のとても慌ただしいときに時間を割いていただきました。"音楽室"には、外の暑さを忘れさせてくれるように伽羅の香が漂い、間接照明に照らされたシェルフと、ドアに貼られたたくさんのポストカード。フランク・ロイド・ライト風のデザインのシェルフは和泉さんの手作りだそうです。他にもマガジンラックを作られたり、照明も手作り。ピアノの後ろの防音用の壁も「これも自分でやったんですよ。」玄人はだしの料理人でもある和泉さんに、「指を怪我するかも、ということは気にされないんですか?」と伺うと「それがちょうどいい緊張感になるのかも」とのことで、あまり神経質になっている様子はありませんでした。部屋の中のいろいろなものを作ったり、お料理をしたり、"手作り"が本当に「好きなんですよねぇ」。お料理と作曲、あれをこうして、と手順を考える点は共通しているそうで、それも和泉さんは楽しんでいらっしゃるそうです。
数あるピアノの中で一つを選ぶとしたら、「スタインウェイのBタイプ」だそうです。フルコンは、ピアノそのものだけで、十分なパワーを持っている。Bタイプなら、弾き手の微妙なタッチやテクニックを音に現すことができるから。ピアノを自分のものに作っていくことができるから。
「たからじま」というアルバムは今年3月と5月に1枚づつ発表され、5月の発売で2枚組が完成するというスタイルのアルバムです。「日本の唱歌」をソロピアノで歌ったもの、和泉さん作のリアレンジ曲も収録されています。収められた唱歌のほとんどは聞き覚えのある曲。このうえなくシンプルな"夏は来ぬ"から始まって日本の四季を辿るように構成されています。歌詞に縛られることなく、タイトルとピアノの音だけで、いろいろな情景が浮かんできます。小さい頃に遊びに行った海辺の砂の熱さ。目の前に広がる海をずっとずっと遠くまで行けるとしたら、どんな風景があるのか。日本海の荒涼とした風景に夕日が沈み、暗闇の中に取り残されたような寂しさ。やがて来る朝日。穏やかに満ち引く波のリズムは、自分の呼吸とシンクロしていく。目を閉じ、異国の物語を思う。一塵の砂煙りが作る紗のヴェール、冷たい月と見渡す限りの冷たい砂ばかりの白い丘を夢のようにキャラバンが遠ざかっていく…。
ストリングスが入らなくても、入らないからこそ、ピアノの余韻の隅々までが表情を持っている。「FORGOTTEN SAGA」が雫や霧や水の流れを感じさせるアルバムだとすると、「たからじま」は温度を感じさせるアルバムのような気がします。
7月24日(大阪)と30日(東京)で開かれるコンサートは、「たからじま」を中心にした構成になるとのこと。そして、そればかりでなく、新しい曲もいくつか披露されるとか。
7月の半ばまで、和泉さんは、秋に発表される新しいユニットのレコーディングでニューヨークに行っていました。そのユニットは「FORGOTTEN SAGA」「たからじま」とは、がらりと雰囲気を変えたラウンジ。ニューヨークに在住の古くからのお友達がリズムセクションを作り、和泉さんがメロディー、そしてボーカルが詩を乗せてという、大人の鑑賞に耐える上質のポップスとのこと。聴かせていただいたデモは、ポップスという言葉で片づけてしまうには、美しすぎる旋律。真夜中過ぎ、けだるい時間がゆったりと流れていくような…。
このユニットについては、『月刊ショパン』という雑誌の8月号にご自身がエッセイを書かれています。いずれは、ボーカルに曲を提供することを目指してらして、映画音楽も手掛けたいとか。
レコーディングや合間のセッションには、ラテンのミュージシャンと触れあうことが多かったそうです。「ボサノヴァもやりたいな、すぐにでもできる準備はあるんだけど」。アジアの湿度を思わせる「FORGOTTEN SAGA」、日本の季節感の奥行きを再認識させる「たからじま」、都会的なラウンジに、ボサノヴァ、ラテン…。ジャズなら北欧のジャズが一番気持ちに合っている、ピアノトリオにボーカルをプラスしたジャズバンドも動かしていて、とアルバムを出すたび、コンサートを行うたびに違うジャンルの和泉さんが現れます。和泉さん自身の中でジャンルはそれぞれが重なり合い、区切ることのできないものだそうです。ジャンルがない、というのではなく、"ピアノを弾く"ということが和泉さんのライフワークなのでしょう。
今、生の楽器の音を味わえる本当のLIVEというのが少なくなっていることを和泉さんは憂えていらっしゃいました。パソコンや電子楽器で、生の楽器を鳴らすことなく音楽が作れてしまうこと。そういう音楽は溢れていても、子供達が生の音楽に触れる機会が減っていること。ピアノの鍵盤ひとつを叩くだけで、生活や音楽を取り巻く様々なものへの愛情を感じさせてくれる和泉さんの言葉だけに説得力がありました。
だからこそ、和泉さんにたくさんのライブをやっていただきたいのですけど。7月のコンサートの後、9月より東京・八重洲でのマンスリー・コンサートが再開されるそうです。
公演情報はこちらでどうぞ→和泉宏隆ピアノコンサート「たからじま」
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