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Vol.69
「劇団 京」
【蠍を飼う女】

2000年12月1日〜10日
下北沢◎ミニシアターKYO

建物としての家と家族の崩壊。家のズレとマトモさからズレ。がこの芝居のテーマなのだと思う。ところが時代のズレと舞台の上と客席のズレまでもが加わり、客席は視点が定まらずに目眩がしてくる。テーマ自体は、普遍的なものだと思う。

目前の定年と崖崩れで傾く家に、自分が何をしたらいいのかわからない父親。ヒステリックに怒鳴り散らすだけで、何も見ようとも考えようともしない母親。醒めてる大学生の弟。そして主人公「とき子」。「とき子」の元婚約者。「とき子」と不倫してる教師。こういう人たちは今もいると思う。TVドラマにもありそうな設定だ。

傾き、崩れようとしている家と運命を共にするのか、飛び出すのか。その選択に大いに絡んでくる「とき子」を巡る二人の男。自分の保身のため、不倫の事実を崖崩れとともに封印しようとする。「とき子」一家を生き埋めにしてしまおうと画策する教師。それは「正義」の名の元に、こんな土地に家を建てさせた者への訴訟の準備までして。かつて結婚を誓いあった「とき子」の突然の心変わりにもめげず、「愛」の名の元に、「とき子」一家を救い出そうとする元婚約者。救い出そうとするのだけど、「とき子」の心変わりに愛は屈折して、「とき子」の命を自分の手に握ろうとする。ストーカー的な行為だ。

あくまでも自分を正当化する、よく喋る人々で騒がしく進行していくのだけど、物語の舞台になった昭和34年の風俗用語、差別用語がそのまま出てくるし、思想に走った教師の演説や普通の大学生の弟のセリフは、いま耳にすると不自然。使う必然性がないから、差別用語にも神経質に反応してしまう。客席には20歳前後の人も多かったのだけど、わかったのかなぁ。興奮して語るセリフに客席から笑い声も起こる。笑うとこではないんだけど、いたたまれない雰囲気なのだ。今風の「チョーつまんな〜い」とか変なアクセントの言葉。これを当時の風俗に忠実にと、50年後にそのまま上演したらどうだろう。もしかしたら、「コギャル語」はスタンダードになっているかもしれないけど、今と同じニュアンスでは、伝えられないはずだ。

脚本に忠実に忠実に、それはすごく伝わってくる。言い澱み、言い直すことに(役者さん全員が)、初めのうちはセリフを覚えていないのかといぶかしんだのだけど、どうもそうではないらしい。脚本に忠実であるために、そこに書かれてあるままに言い直しているのだ。そのくせ、不明瞭な早口はそのまま。一言一句、間違えずに言うより、印象的に伝えることが役者さんには大切なことだと思う。何のために観客を入れて、上演しているんだろう。

ギャグなのか、真面目な中からにじみ出る可笑しさと取っていいのか、役者の暴走なのかわからない。崩れかけた家の様子を斜めにした床で見せているが、それに足を取られる役者の動きも意図した笑いか、客席は無視すべきことなのか…。 一番わからないのは「とき子」の心変わりと不倫に至る理由。それがこの芝居のズレを修正できる唯一のカギなのだと思うけど、誰も見つけようとしないまま。

活字で読んだのなら、おもしろいと感じたのかもしれない。でも、文字をそのまま舞台で読み上げるのなら、演出って何?と思ってしまった。

2000年12月10日


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