Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》J-dance

vol.44
'01.12.11. 高知県立美術館ホール
J−ダンス最前線(高知県立美術館舞台公演シリーズ VOL.20 )

PROJECT FUKUROW 「HARIMAO破理魔王」
〜「OZUMA汚不魔」+「HARIMAO破理魔王」 Remix〜

Study of Live works 発条ト「タイムニットセーター」

 ダンスシーンに明るくないので、この企画がなぜ最前線なのか、セレクトされたカンパニーのどこが最前線なのかは判らないけれど、いずれも興味深いステージだった。

 PROJECT FUKUROW のステージには冒頭から意表を突かれた。古い木机のうえに横たわった白い人形がまず動き始めた。ダンス公演だと思っていたのに、なんともトリッキーな始まり方に驚いたが、天井から糸で操っているのだろうと思っていた。後で、人形どころか机自体が自走式の機械仕掛けだと知ったが、時代錯誤的な響きの行進曲に乗って机の下の小さな人形の歩みとともに机が移動し、その奥でダンサーたちが歩みのイメージを含んだダンスを踊っている姿に「生と時代の歩み」をイメージしながらも、動く物体自体については、所詮は小道具だというふうに受け取っていた。僕のなかで機械仕掛けが鮮烈な意味を帯びてきたのは、自動で回転する二対の切株状の椅子に乗ってダンサーが身体表現を始めたときだった。

 僕の勝手な思い込みにすぎないが、ダンスが身体の動きを見せるうえで、機械の動力を取り入れるなどということがあろうはずがないと思っていた。音楽や映像といった部分での演出効果を上げるためにテクノロジーが活用されることがあっても、身体の動きそのものを見せる部分ではテクノロジーを拒否しないと、ダンスというものの根幹が侵食されるような気がするからだろう。公演後、演出・振付・美術・装置を担当した主宰者の石川ふくろう氏が電子工学の分野からダンスの世界に入ってきた人物だと知って合点がいったけれど、初めからダンスの世界で始めた人には出てこない発想で、非常にオリジナリティの高いものだと思う。そして、機械の動きと身体の動きという対照イメージが鮮烈になるのは、生身の身体の動きが、よく鍛え上げられ、確かな筋力と柔軟性に支えられた高度な技術による美しいものだったからだとも思った。

 身体で表現されたイメージで印象深いのは、手首から先を振りちぎり、引きちぎろうとするような手の動きだった。自分自身の一部に対して感じる違和感、異物感といったものを暗示しているように感じた。そのせいか、このステージ全体の表現しているものも自身の内にある違和感というものではないかという気さえした。いくつもの人形に分離されて登場しないではいられない自己というイメージというのは、統合できない違和感を内包していることの表れのような気がした。そこから、このようなステージが創造されたのかもしれない。

 発条トのステージは冒頭とも言いようのない形で始まった。開始ベルの前からステージ上のボードにビデオ・プロジェクターから投影された映像が映っていて、開始前の挨拶と注意を板書していたりする。開始ベル後に、公演の始まりを告げる影アナの声が聞こえ始めたかと思うと、おしまいまで行き着かないで中断され反復される。
録画された映像や録音された声は、編集によっていかようにも切り繋ぐことができる。繰り返したり、逆戻ししたりするのも自在だ。ごく普通の身のこなしがそういう編集によって見慣れない動きになり、非日常的な踊りの動きと見紛えるものになったりすることは、既に経験的に僕らは知っている。そのように時間を加工し再構成した動きを編集のしようのないリアルタイムのなかでライブの身体表現によって現出しようとしたステージだ。

 そこには時間とか形式といったものに対する素朴で興味深い関心が窺える。とりわけ僕は、そういう意味では時間芸術とも言うべき映画に耽溺してきた部分があるだけに心惹かれたのだが、同時にまた、それゆえにかもしれない物足りなさも残った。いささか表層的で、コミカルに流れ過ぎたような気がする。寄席芸的な笑いを取ることが直ちに悪いとも思わないが、それならそれで、時間芸術的な能書きはないほうが潔い。ダンスとして観た場合、身体表現としての動きにユニットにおける緊密さというものが不足していて、ズレと一致の対照の際立ちに欠けるのが残念だ。

自在に加工できる時間表現としての記録映像とそうはできないライブとのズレといったものに焦点を当てているのだから、そこのところに限らず、身体表現としてのズレることと揃うことそのものに対して、もっと厳密な表現が求められるべきではないかと思った。

 また、ダンスというものが、言葉という言語によらない、身体言語をもって自らの表現としてのアイデンティティにしているものだと、僕が勝手に感じているからかもしれないが、映像はまだしも、敢えて言葉という言語を持ち込んだ割には、いささかお手軽に過ぎる気もする。もっとも、既に発条トというカンパニー自身は、ダンスというカテゴリーに縛られるつもりは毛頭なく、ライブ・パフォーマンスとして自らの表現を捉えているようだ。それはそれで、興味深いことではある。ダンス自体から逸脱していきつつあるのだろう。そういう意味では、今回鑑賞した公演は両方とも、従前からの僕のイメージにあるダンスとは相入れない要素を持ち込んでいたわけで、それぞれの公演自体に対する共感度に差はあっても、ともに充分刺激的ではあった。そういうところが主催者側の意図する「最前線」だったのかもしれない。


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