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vol.38

ク・ナウカ演劇連続公演『王女メデイア』(海外ツアー凱旋記念)   
'01. 7.22. 高知県立美術館ホール

 三日前に観た『天守物語』と違って、ムーバーが女性でスピーカーが男性と意図的に分けられていた。『天守物語』では、女性の台詞を男声で演じたり、男性の台詞を女声で演じたりすることに違和感を覚えたが、このように完全に区分けされると却って違和感が生じない。それどころか、芝居に対する解釈のもたらす必然性を帯びた意図が伝わってきて面白かった。『王女メデイア』をフェミニズム劇と解釈するのは、エウリピデスの原作の主題がそこにあったとは思えないだけに、実に現代的で新鮮な、興味深いものだ。

 そして、そのように解釈すればこそ、ロゴスの象徴とも言うべき言葉を担うスピーカーたちが総て男性で、パトスの象徴とも言うべき身体を担うムーバーたちが総て女性でなければならないのだろう。また、二千五百年ほど前のギリシア劇を百年余り前の近代日本の遊廓のお座敷において演じさせることも、それが時代を越えたものであること以上に、そこが我が国の男権文化のありさまを最も顕著に晒した場であり、人々であったことによる必然性として説得力がある。加えてメデイアに韓国の民族衣装を着せたことで、ギリシアと小アジアのコルキス国の関係を日本と韓国に重ねる形で主従が強調され、それによって男女の主従に対する批判的な眼差しも強調されていた。

 しかし、皮肉なことに演劇として表現されたもので最も強い印象を残したものが、そういう解釈に与えた形式であるとか、スピーカーたちの話芸や言葉であって、いわばロゴス的なもののほうが優位を占めていた。連続公演として続けて観たなかでは、『天守物語』のほうがムーバーの印象度が強いように感じられたのだが、その対照は、演出により意図的にもたらされたものだとは思えなかったから、皮肉なことにという印象を残したのだろう。だが、終幕は明快に率直であった。遊廓に集った名士たる男権文化の権化のような男たちスピーカーの全員が殺され、まるで目覚めを告げるかのように、女たちムーバーは乳母を除く全員が女神のごとき出で立ちに衣装替えして、光のなかで凛として立っていた。その光景を面白くは観ながらも、カタルシスとは感じなかったのは、僕が仮に必ずしも特段の男権主義者ではなかったとしても、男である以上は仕方がないのかもしれない。しかし、それだけではなく、ロゴス優位に批判的に向けた眼差しのありよう自体がロゴス的であるという皮肉がもたらしているような気がしないでもない。

 それにしても、メデイアを演じた阿部一徳の朗々たる声と独特の言葉の区切り方は、強い印象を残している。また、台詞自体が和声として働くコーラスのような響きも面白く、そのような効果をあげていると必ずしも台詞としてきちんとは聞き取れなくても、さして不満を覚えたりしないところが、我ながら現金なものだと思った。
 ところで開演前から開演後もずっとステージにとどまり続けた無言の乳母(江口麻琴)は、いったい何者なのだろう。二千五百年前から百年前を経て今に至るまで抑圧された女の歴史を見続けてきた存在とでも言うのだろうか。冒頭の書物のページを捲るような効果音といい、最後に崩落してくる書物のイメージといい、ロゴス批判をしながらも、いかにもロゴス優位の作品ではあった。


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