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水と油公演『見えない男』(高知県立美術館舞台公演シリーズ VOL.19 )
マイム劇をきちんとした形で観る機会を持ったことのない素人考えだが、芸能としてのパントマイムにおけるアーティスティックな部分というのは、ちょうど文学における詩のようなものだと漠然と思っていた。視覚的な形象として提示していない事物や風景を言葉によるイメージで表現し、受け手に想像させることであたかも眼前に存在しているかのように感じさせるとともに、そこにある種の感情の誘発を促すものだと考えていた。詩の言語が言葉なら、パントマイムは身体動作というわけだ。
そういう観点からは、僕がパントマイムに抱いていた見えない事物の形象を身体言語で表現するといった要素はほとんどなく、身体の動きそのものを見せて魅了する表現への関心の強さのほうが印象に残った。ドアを挟んで手前と奥に置いた椅子に腰を降ろした二人の男のマイム劇にしても、物語性以上に動きの同期性とズレの組み合わせとしての身体表現の側面が強く、そういう意味ではダンスに通じるものがあり、僕としては、実際の動きとして取り入れられたダンス以上にダンス的なコンセプトを感じた。メモ用紙のようなものをもじゃくる動きのずらし方は、それまでのシンクロニズムを意図的にずらしたものであり、煙草とライターの片方があってもう一方がないことで生じる動きのずれとは明らかに違う。
それにしても、よく鍛え上げられた動きだと思った。事物の形象を表現したり、何かの形態を誇張して模写することに重点を置くのではなく、身体の動きの呼応や連動といった相互作用というダンス的コンセプトに立ったマイムの動きというのは、かなりオリジナリティの高いものではないだろうか。
それと同時に、芸能的ユーモアを湛えつつ、より鍛えられた身体表現を印象づける点で単なるコントを突き抜けているように感じられたビーチフラッグのパートなど、TVの筋肉番付でも馴染みがあって、楽しいパフォーマンスを提示しようという敷居の低い構えが嬉しい。エスカレーターの動きは何年か前にTVで観た覚えがあり、パントマイムの代表的な技の一つらしいが、沈みゆく身体の動きが衝立で隠れる以上に沈むことはあり得ないのと同様に現れ出てくる身体の位置がステージに立った高さ以上になることは予想していなかったので、意表を突かれた。そのために三人目が飛び込んだのかと感心。手の位置と顔の位置のずらし方とか、けっこうトリッキーな不思議さを見せ物的にも披露してくれ、実に楽しかったが、常にある種の洗練と鍛練が漂っていて、崩れるというところがないのがステージ・パフォーマンスとして美しい。楽しくて美しい表現というのは、わりあい少ないように感じられるので、今後が楽しみだ。
ただひとつ残念だったのは、自分が猛烈な睡眠不足で体調不良だったこと。こういうイマジネーションを刺激してくれる表現を前にして、自分のコンディションの悪さによっていつもより感度が悪くなっていることを自覚せざるを得ないのは勿体ないことだ。わずか四百席のホールでの今回の公演が今までで最もたくさんの観客を前にしてのものであり、広いステージでの再構築に苦労したとの話もあったが、そのような新進グループの刺激的なステージを高知のような地方都市でもライブ体験できるようになったことの喜びを堪能できるものだっただけによけいに残念だった。あとサウンドなり音楽的な部分がもう一皮むけたときの彼らのステージを是非とも観てみたいものだと思う。
「ヤマさんのライブ備忘録」の扉へ
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