Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》9・6 SQ+Pf concert
ちょうど二年前に同じ会場で初めてその演奏を聴き、現代音楽というものに対する思いがけない気づきを与えてくれた四重奏団の演奏会だけに浮き立つ気持ちを抑えがたく、午前中の公開リハーサルから駆けつけた。熱心なファンが数十名集まり、今日のプログラムの唯一のピアノ五重奏曲の調整を解説とともに聴いた後、簡単な質疑応答の時間があった。会場からは、譜面の表記法や十年ぶりの共演での違いなどの質問が出た。僕自身は、公開リハーサルというものに初めて立ち会ったが、いわゆるレクチャー・コンサートなどよりも、こういうスタイルのほうが数段気が利いているように思う。アルディッティがクセナキスの「アケア」の演奏について、ビブラートを一切使わない演奏をすると語っていたことについて、当日たまたま会場で出くわした友人が、それは作曲家の指示なのか、演奏者のオプションなのかを知りたがっていたが、彼は質問をしなかった。美術館ホールでの演奏会において、こういう機会が半ば恒常的な形で定着すると、もっと活発に質問が出るようになるかもしれない。期待したいところだ。
午後二時からの本番は、ベートーヴェンの「大フーガ 変ロ長調 作品 133」で始まった。まず驚いたのが、リハーサルのときと段違いの音の大きさと朗々たる響きだった。弦の響きなどと言うのが躊躇われるくらいに、ヴァイオリンもヴィオラもチェロも胴が鳴っている感じがした。弦楽器の胴の部分をこれほど強く意識させられる響きを聴いたのは初めての経験だ。あまりの違いにリハーサルのときの反響板の組み方がどうだったのか、思い返してみたが、思い出せなかった。
この楽器の胴の鳴りの際立ちは、二曲目のコンロン・ナンカロウの「弦楽四重奏曲第3番」の始まりが、同じパッセージをチェロ・ヴィオラ・第2ヴァイオリン・第1ヴァイオリンと順次弾いていく形になっていたので、特に印象深かった。また、第二楽章の水の滴りを思わせるピチカートが、ありがちな規則性とは微妙にずれた不規則性を孕むことで却って自然界の状態に近い規則性を醸し出し、実に生き生きとした雨垂れのイメージを誘ってくれた。水滴が落ちるまでに膨らむ時間は箇所によって異なり、同じ箇所であっても、一回一回が微妙に時間の長さが違いつつ、一定規則正しく音を刻むのが自然界の雨垂れだ。しかし、演奏によって、音楽としてその微妙さを描出するのは至難の業ではなかろうか。
三曲目のヤニス・クセナキスの「ピアノ五重奏曲アケア」が午前の公開リハーサルの曲だ。当然のことながら、折々に中断しアンサンブルの確認と調整を行うリハーサル演奏では生まれようのない緊張感のもたらしてくれる心地好さと響きの豊かさが嬉しかった。
それにしても、ベートーヴェン以外は共に20世紀の作曲家の作品で、いかにも現代音楽的な奏法や響きを聴かせるのだが、驚いたのは、それより150年も前のベートーヴェンの曲が、奏法などに現代音楽的なものは一切ないのに、プログラムとして同居していて全く違和感がないことだった。僕自身は、たぶん初めて聴いたはずのこの曲が、つまりは、音の構成として現代音楽と聴きまがうようなものを持っていたということなのだろう。150年の開きを考えるとおそるべしと言うほかない。当時、人々にはどのように受け取られ、評価されたのだろう。
第一部は、この三曲だったのだが、さすがに充分刺激的な演奏ではあるものの、前回ほどの強烈なインパクトはなく、やはり二度目となると違うのかなと思っていたら、とんでもない第二部が待っていた。一曲目のウォルフガング・リームの「弦楽四重奏曲第10番」は、この日のプログラムのなかで、僕には最も印象深かった曲だ。前後二つの部分に分かれていて、四本の弦楽器すべてがしばらくの間、ピチカートによる演奏を続ける形で始まるのだが、ヴィオラなどは、弦を弾いた後で指板をスライドさせて音を変化させたりもしていた。ギターなら別に珍しくもないけれど、ヴァイオリンよりは大きいと言え、あれだけの長さしかない固く張った弦で、弾いただけの振動を殺さぬように指で抑えてスライドさせるには、余程しっかり抑えないと叶わないのではないだろうか。四人が声を揃えて「ダー」と発声したり、弦をしばくようなボウイングとともにわざとカシャカシャという音を立てたりし、第2ヴァイオリンに至っては、左手で胴の部分を叩いてポコポコと太鼓のような音をたてながら演奏したりする。ある種、混沌とした形でさまざまな響きのイメージが展開していくなかで、やおらチェロが朗々としたメロディラインをいかにも足早な感じで弾き始め、それがどこかの国歌なり民族を象徴する曲のように聞こえてきたとき、僕には、この曲が戦乱の混沌をイメージしているように聞こえ始めた。足早な感じは、まるで記録フィルムのラッシュを早回しする形で、長い戦乱のときを辿っているイメージを呼び起こした。それによって、混沌とした形でのさまざまな響きのイメージが勝利の歓喜や鼓舞であったり、敗北の沈欝や戦火に逃げ惑う混乱であるかのように感じられ、始めのほうの「ダー」の掛け声も開戦の閧の声だったのかと思ったりした。そして訪れた後段部分は、まさしく戦争が終わった後の、いっさいが無に帰した荒廃のなかの虚無ともいうべきものが静かに描き出されているように感じたのだった。この曲の実際の制作背景など何も知らないが、現代音楽と言われるもので、こんなふうに具体的な何かのイメージと物語を感じたのは初めてのことで、半ば衝撃的とも言える音楽体験だった。
プログラム最後の曲は、第一部の最後の曲と同じ、ヤニス・クセナキスの「テトラス」だった。ここではまた、それまでに聴いたことがないような響きを弦楽器が奏でていて、圧倒的だった。世界の音楽シーンをロック・ミュージックが席捲した時代を経た音楽であることが如実に窺えるようなロックのエレキギターの出すような音色や床やドアが軋むような音、巨大な虫の羽音のような響きが続々と繰り出され、仰天してしまう。通常の弦楽四重奏の演奏で耳にすることのできるような響きは、ほとんど聴くことができないといった風情だ。作曲者は、いったいどういう発想で、このような音の造形をするのだろう。作曲するほうもするほうだし、演奏するほうもするほうだ。極端に限られた音楽家同士の間でないと成立しようがないもののような気がする。果たして、今回のプログラムの現代音楽4曲中3曲が、アルディッティ弦楽四重奏団が初演をおこなったもののようだ。
それにしても、二年前は四百人ほぼ満席だった会場が、今回は半分程度しか埋まっていないのは、実に寂しい限りだ。前回で懲りた人が多かったのか、はたまた日韓共同開催のワールドカップ熱の煽りをくらって、催しとしての影が薄くなっていたのか、何にしても残念きわまりない。
「ヤマさんのライブ備忘録」の扉へ
無断転載禁止 掲載:アーク編集室