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vol.77

'03.10. 8. 朗読物語『父子杉』 会場:文化プラザかるぽーと[大ホール]
'03.10.10. 朗読劇『時を写すカメラマン』 会場:文化プラザかるぽーと[小ホール]

 ライブの朗読を鑑賞するのは初めてなのだが、思い掛けなくも続け様に二つの公演を楽しむ機会を得た。どちらもオリジナル作品の初演物で、高知市以外の郡部会場での公演も行うようになっていたが、ともに手作りと言いながらも非常に対照的な出で立ちで、それゆえにライブの朗読というものについて、あれこれ想いを馳せる好機を得たようにも思う。

 『父子杉』は、原作が県出身の直木賞作家山本一力の書き下ろしで、音楽原作も地元の武政英策。演出が劇団民藝の兒玉庸策で、音楽監督が日本フィルのコンサートマスター大川内弘、舞台美術や音響照明等を劇団民藝が製作し、朗読は日色ともゑ。音楽演奏が日フィルの大川内弘と高木雄司によるヴァイオリンとチェロに加え、アコースティックユニット「マリオネット」の湯淺隆と吉田剛士によるポルトガルギターとマンドリン、という言わば鳴り物入りの構えである。かたや『時を写すカメラマン』のほうは、朗読者二人のうち演劇集団円の青山伊津美を除くと、瑠美のパートを読んだ門脇幸もヴァイオリンの武中淳彦もピアノの大野日菜も、音響照明もオリジナル台本も、総てが地元在住の実演者たちの手によるもので、正真正銘の手作り作品だ。

 『父子杉』では、事前に読む機会を得ていた原作において懸念された、木と石、江戸者と田舎者、父と子といった対置の構図が図式的に前面に出てくるのではとの思いが、巧みな脚色と音楽の美しさによって、予想以上にカヴァーされていることに驚いた。殊におまきと杉太郎の若夫婦の乗合船でのやりとりの段で、甘やかに清々しい響きを奏でていたポルトガルギターの音色の美しさには格別のものがあった。また、感情を入れ込み過ぎない朗読の程よい品のよさによって、一歩間違えばベタベタになりかねない場面が、逆に最も息づきの感じられる印象深い場面になっていた。それとの比較で言えば、ハイライト・シーンとも言うべき安田川の増水に備える場面に、好対照として見合うだけの緊迫感と力強さが宿っているとは言えなかったような気がする。台本が長過ぎて、ほぼ読み通しの状態になる朗読者の疲労のピークと場面的に重なるという条件不利が作用している部分もあるのかもしれない。そういう面からも、折角これだけのミュージシャンを確保しているのだから、朗読を休ませて演奏を聴かせる部分がもっとあっても良かったのではないかと思う。響きの構成としては、ギターやマンドリンという撥音の響きを意識してか、ヴァイオリンとチェロでは擦音の響きに主眼を置いた音の構成にしていて、繊細な音立て以上にしっかりと胴を鳴らす力強い音づくりを心掛けているように感じられた。

 『時を写すカメラマン』は、音楽面での格段の差は否めないにしても、正真正銘の手作り作品との事前予想の水準を遥かに越える堂々たる公演だった。ハートフルであることにおいては、むしろ鳴り物入りの設えの『父子杉』を上回っていたように思う。小さな会場のあちこちから聴衆の啜り泣きも漏れ聞こえてきた。聴衆に感銘を与えられるのであればジャンル立てにこだわる必要はさらさらないのだが、ライヴの朗読に対する知見を僕が備えていないゆえに、ふたつの公演の朗読スタイルの違いの際立ちというものが、大いに興味深いところでもあった。『時を写すカメラマン』では、朗読者が二人いるということもあるが、感情を込めた読みぶりが朗読の範疇を越えて登場人物を演じるところにまで至っていた。特にスクープ・カメラマン瑠美の言葉の部分のみを受け持った門脇幸は、表情も豊かに泣き笑いを露にして瑠美になりきっていた。そこに力も宿っているわけだが、そうなると朗読というよりは、ラジオ劇と演劇との中間ともいうべき略式演劇といった風情を帯びてくる。台本そのものが地の文章がほとんどない台詞劇のような体裁だから余計にそうなってくるのだが、演劇の台詞として続けるには難のあるメール文や手紙文、日記で構成してあるところがミソでもある。

 ライヴの朗読の妙味というのは、そもそも何なのだろう。物語を味わうとして、読書、朗読、演劇映画それぞれの味わいの違いを受け手の想像力による参加の度合いで考えると、朗読というのは読書の側に近いもので、視覚としての情景などは総て受け手の側で想像すべきものながら、音声や音楽、光や空間の雰囲気などによって想像力の活性化を触発するものだという気がする。『父子杉』の朗読には、そういった部分への配慮というものが非常に行き届いていることが感じられた。そういう意味では、地の文としての言葉によって情景を想像させる描写が一切ない『時を写すカメラマン』はあくまで「朗読劇」であって、『父子杉』のように「朗読物語」ではないわけだ。どちらの公演も内容に見合った表題を冠している。そう考えると、『時を写すカメラマン』で演じるように読んでいたのも何ら不都合はないように思われる。メール文、手紙文、日記でそれぞれ巧く文体を使い分けていたのは大事なところで、手書きの手紙なればこそ紡がれるであろうような言葉への見直しを促すうえで、他の文章を読むときと違えて、手紙文を読むときだけ音楽を被せる形での朗読にしたのは適切な演出だったように思う。しかし、スライドで映し出した写真の位置づけが今一つ不鮮明であったことは、演出的には少々気になる部分であった。


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