Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》syounen_oojyakan*soleil
7年前に県立美術館が行った“美術館製作映画コレクション”と題する企画上映で、劇団「少年王者館」主宰の天野天街の監督作品『トワイライツ』を観たときから、いつかライブ公演を観てみたいものだと思っていたのだが、実現したのは嬉しいものの、なんとも残念で勿体ない公演だった。美術館ホールは、とてもよく響くホールなので、生音それも小編成の室内楽などには豊かな贅沢さを与えてくれるが、PA出力をすると、音響設備の御粗末さと相まって音でもつらいものが言葉だと殆ど聴き取れない状態になってしまう。PA装置の改善とその出力レベルの調整は、このホールでの公演の最重要ポイントなのだが、なぜかいつまで経ってもPA出力が過大なままになっている。音調室の窓を開けて場内の音を直接聴いても、あの場所は最も音がデッドになるところだから、客席との違いが大きい。このあたりは、客席でのモニターと音調室の担当者のスタッフワークで本来当然にしてクリアすべきことだ。
特に今回の公演のように、「『それいゆ』をキーワードに拾い上げられたいくつものイメージを言葉遊びでどんどんつなぎ合わせ、混沌とした物語を形成してゆく。」と自らチラシに書き、表のカラー面にも「言葉のコラージュ」を謳いあげているくらい、言葉というものが大きな位置を占めている作品なれば、それがほとんど聴き取れないのでは苛立ちを催させられるばかりだ。役者の発声自体は、むしろしっかりしていることが偲ばれ、よく鍛練された身体動作などにも感心させられていただけに、これが本来の姿で提供されれば、さぞかしイマジネーション豊かな、左脳的言語による右脳的刺激の横溢する魅力的な舞台公演になったはずだ。そう思うと、余計に腹立たしかった。目に見える形の言葉遊びの部分でも、「びつくり」が「くびつり」になったり、手繰って得た糸の字が冬と並んで「終」になったりする死的イメージが仕込まれてたり、「mean」「mean」との鳴き声として大量に映し出された文字の意味が「意味」だったりして、イミシンな笑いを誘う。音声部分でもそういう左脳的表出をしっかりと伝えてくれていれば、ステージ上で前面に押し出す演出を施されていた音と光、映像とダンスが、目と耳から入ってくる「言葉」という左脳的表出を含めた総体を右脳的刺激に転換していくダイナミズムが味わえたのではないかという気がする。そこが、このステージのおそらくは醍醐味の部分ではないかと思う。そういう意味では、醍醐味のところを台無しにして、醍醐味を味わわせずに偲ばせることだけは確かにしてしまうという、半ば非道公演とも言うべきものであった。名誉回復のための再演は、ほとんど果すべき義務とも言えるのではないかということで、会場で出会った友人と意見が一致した。
ふたつの太陽がバックでひとつに重なる姿を観て、十五年ほど前の映画『バグダッド・カフェ』でルディ(ジャック・パランス) が描いた二つの太陽のことを思い出した。最後の文字パネルのマスゲームのような無音の叫びとも言うべき展開にも圧倒された。各人が全く見えない状態でパネル操作をして言葉としての乱れがないように、しかも読み進める流れを誘うように開いていくのだから、たいした鍛練だ。本来の醍醐味を味わうことのできるステージ展開を果したうえで、この二つのことに出会っていたら、僕はどんなふうに感じていたのだろう。返す返すも残念でならない。
'03.10. 5. 高知県立美術館ホール
「ヤマさんのライブ備忘録」の扉へ
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