Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》Shimin Reikai*248
僕は、水上勉の陰鬱な情念の世界があまり好きではない。おまけに慈念(嵐広也)の
出生の背景のみならず、舞台の最後に水上印のようにして瞽女の行列が出てくると、
むしろ興趣が削がれるように感じてしまう。また、物語としては、慈念にとって、憧
れの里子(高橋惠子)が慈海(金内喜久夫)のような男との内縁関係に縋っていることの
耐え難さが遂には殺意に至るうえで、里子に誘われて過ごした一夜の出来事が決定的
で、それがなければ、師殺しまでは犯さなかったように思えるけれども、それ故に最
も気になるのは、あの一夜の後に慈念が抱えた自責と煩悶の凝縮が殺意に繋がる過程
なのに、それについての描出が物足りなく感じられる。(住職の地位を得て堕落して
いるように思える師、慈海の欺瞞性がひとつの口実ともなっていることへの自覚は、
おそらく十代半ばの慈念にはなかったであろうが、後の托鉢の旅のなかでは気づいて
いたかもしれない。)
もっとも、慈海を無慈悲で好色な生臭坊主として過度に際立つ悪役とまでは仕立て
ずに、俗欲にまみれた己が力の行使に満悦を覚える凡人であるとの人物造形に留めた
木村光一の演出には好感を覚えた。
だが、僕にとっては、何と言っても高橋惠子の魅力がイチバンという舞台だった。
彼女は、僕が十代半ばの時分に、雑誌のヌードグラビアを初めて切り取り保存した女
性だ。それだけに、ひとしおの思いがある。凛とした清冽さが明朗さのなかに宿って
いて魅せられたのだったが、あれから三十年を経てもなお、凛とした清冽さを、今度
は成熟と落ち着きのなかに保っている。凄いことだ。今回の舞台では、入浴中に石鹸
を求め、浴衣を引っ掛けて湯殿から出てきた場面での濡れた身体に浴衣が貼りつき肩
も露わな姿の艶っぽさが鮮烈だったが、それ以上に、自身もつらい生い立ちを過ごし
てきた里子が、慈念の出生の秘密と生い立ちを知り、人との交わりに和む感覚を育み
ようもなく孤独に生きてきた彼の胸中に寄せる共感への昂りの余り、胸をはだけ乳房
も露わに、慈念を包み込もうとするようにして、両手を広げ立ち臨んだ姿に圧倒され
た。
近頃は席詰めの声が掛かっても敢えて前の席に行く熱意を失っていたのだが、今回
は久しぶりに席詰めで前に移動し、6列目中央部という好位置に座していたのだった。
思わぬ果報に恵まれ、大いに感じ入った。そのせいか、帰宅して思わず未だに手元に
残っている三十年前の切り抜きグラビアを取り出して、十八歳の彼女に再会したのだ
った。
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