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vol.133

演劇集団STH 『新ハムレット』
(演劇祭 KOCHI 2008 観劇ラリー完走指定作品3)

'07. 6.21. グラフィティ蛸蔵


 なかなか面白い芝居だった。シェークスピアの四大悲劇のうちに数えられる『ハムレット』に示されている物語の顛末を潔く振り払い、太宰治の描いた劇の中だけで観ていると、悲劇の主人公は、ハムレットではなくクローディアス王のように僕の目には映ってきた。とはいえ、事実はどうだったのかを判然としない形に留め、受け手の想像に委ねることで、人間の心と言葉の計りがたさというものへの視線を触発しているような作品だったから、所詮それは僕の目に映ってきたものでしかない。

 役者が台本の言葉の持つ力を巧みに発揮していたように思う。弁明と言えば弁明になるかもしれない言葉をいかにも弁明然とは発せずに、聞いている観客の側をその気にさせてくれるような語り方をしていたので、メ言葉の裏の本心が掴みきれない人間の奥深さや闇モとともにメ言葉の力と信用ならなさモというものが、よく現れてきていたように思う。とりわけ観応えのある場面は、僕にとっては、朗読劇の後の宰相ポローニアス(岡本隆男)とクローディアス王(井上琢己)の駆け引きに満ちた論争場面と「ごめんなさい」を間に重ねながらオフィーリア(阿野田由紀)がハムレット(池川慈彌)に辛辣な言葉を繰り出していた場面だった。前者では、人間の心と言葉の計りがたさがテンポよくスリリングに繰り広げられていたが、全編通じて最も本心が不明だったポローニアスが際立っていたように思う。後者では、彼女の言葉のなかに、太宰がハムレットに自己投影をして人物造形するとともに、いかにも太宰的な自虐性による韜晦を宿らせていることが強く印象づけられた。阿野田由紀のオフィーリアは、王妃の想いを代弁することで母と息子の捻れた心の関係を修復せんがためのハムレットへの愛情を窺わせているとも、これまで抑えてきた恋人ハムレットへの鬱積した憤慨をぶちまけているとも映る、ニュアンス豊かな女心を表していたように思う。そして、「ごめんなさい」を重ねて繰り出すときの女性の言葉の容赦なさは、オフィーリア特有のものではないことに苦笑を誘われた。

 言葉に最も力の宿っていたのは、井上琢己の演じていたクローディアス王で、とりわけラストシーンでの言葉には力があって、僕には弁明ではなくて真実の言葉に聞こえた。だからこそ、彼がこの悲劇の主人公だと映ったわけだが、それには、太宰がハムレットに自身を投影していることを感じさせたオフィーリアの苦言の場面が効いていたようにも思う。彼女のハムレットへの苦言に真実味があったから、最後の王の言葉に真実味を感じた部分もあるような気がする。だから、僕の目には、王妃ガートルード(鍋島恵那)の自殺は、夫とともに目前で、悪意に満ちた当てつけ朗読劇を見せつけられる辱めを実の息子ハムレットから受けた絶望によるものだというふうに映った。ポローニアス、ハムレット、ホレイショー(波多野拓有)の三人による朗読劇が繰り広げられているときの王妃ガートルードの狼狽ぶりを、鍋島恵那がなかなかニュアンス豊かに演じていて、単に悪事の露見による狼狽には映らない悲しみを窺わせていたことが効いているように思った。

 ところが、上演後のポスト・パフォーマンス・トークで、演出者の西村和洋から、先王の死の事実が何だったのかを判然としない形にしている太宰作品に対して、一つの解釈を前提に作った芝居だったと明かされた。それによれば、「先王ハムレットを直接的に殺害したのは王妃ガートルードで、彼女がそうするようにし向けたのが野心家のクローディアス王だ」との解釈で臨んだということだ。また、鍋島恵那は、ガートルードの自殺に対して、王でありながら国事よりも女事優先の王たちや家族関係への不審と疑念に囚われてばかりの王子といった男どもへの憤懣と絶望が自殺の遠因としてあるとの解釈を示してくれたのだが、とても興味深く面白いと感じた。しかしながら、芝居の作り手側がそういった一つの明確な解釈を前提に作劇していたのであれば、僕に対しては、この芝居の演出者の解釈は、まるで通じておらず、僕が「事実はどうだったのかを判然としない形に留め、受け手の想像に委ねることで、人間の心と言葉の計りがたさというものへの視線を触発しているような作品」にしていくうえで有効だと受け止めていた役者たちのニュアンス豊かな演技というのは、むしろ演出意図を曖昧にしか表現し得ていないことでしかなかったことになる。だが、僕にとっては、結果オーライというか、一つの解釈で読み込んだ太宰の『新ハムレット』を見せられるよりも、却って楽しめる芝居になっていたような気がする。

 装置・舞台効果という点では、蔵の中という王宮イメージとは懸け離れた空間でエルシノア王城を現出させるうえでは、王宮的な舞台装置を何も構えられない製作費のなかで、蔵の入り口の鉄扉を舞台側に取り込み、開閉の重々しい響きを聞かせたときの最初の音が効果的だった。二度目の音は、台詞を消してしまう不首尾を犯していたので、もう少し気をつける必要があると思った。


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