Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》0628


vol.134

'08. 6.28.
劇団MAC『命を弄ぶ男ふたり』(演劇祭 KOCHI 2008 観劇ラリー完走指定作品4)
グラフィティ蛸蔵

 男二人が思い詰めての鉄道自殺の場に偶々出くわして、という芝居だったが、今の時代とは趣の異なる“きちんとした言葉の美しさ”を感じた。登場した二人がともにレトロな身なりをしていて、言葉の持つ雰囲気と合っていたように思う。器楽演奏の音楽も相当に古びたイメージの旋律だった。後から知ったことだが、台本は岸田國士で、今から八十三年前の大正時代のものらしく、それを意識しての衣装と音楽だったようだ。

 「こう見えても、僕は、考え深い性質なんだ。」と繰り返す役者(行正忠義)と「こう見えても、僕は、センチメンタルなことが嫌いな男なんだ。」と繰り返す学者(山岸龍矢)のどちらもが、“見たまんま”のセンチ屋なのだけれど、ある時代において確かに息づいていた、そして、今年五十歳になった僕などには、どこか普遍的なものだと思えて仕方のない“男の純情と女性への憧憬”が、少々情けなくも微笑ましく宿っていて、好もしい作品だった。

 演じた二人の役者が、遠い時代の生真面目さを湛えた言葉をなかなかそれらしく発しており、そこに次第に宿ってくる可笑しみをうまく出していた気がする。踏切を通過すべく線路を駆け抜けていく列車の音と合わせ、車窓から漏れ出る明かりを光の明滅で示していたのが思いのほか効果的で、傾斜をつけたステージをスクリーン代わりに映写していたのも目を惹いた。

 普段の僕なら、芝居の最後で唐突に登場した『また逢う日まで』の歌唱場面には、やりすぎ感を覚えて気持ちが引いていったような気がするのだけれど、そうはならずに、呆気にとられつつ可笑しさが湧いたのは、静かにシリアスに始まった芝居が次第に可笑しみを強くしてきたことのクライマックスとしての納得感が伴っていたからなのだろう。尾崎紀世彦が歌ったこの唄は、思えば、僕が中学生の時分の大ヒット曲で、そのダイナミックで堂々たる歌唱と内容の女々しさのアンバランスな感じに奇妙さと可笑しみを覚えた記憶がある。余りにヒットして耳慣れてしまい忘れていた、この唄に対する呆れ感を思い出した。

 ともあれ、自殺を思うだけでなく、それぞれ共に一度は線路に飛び込むまでのことをしていた男ふたりが結局のところ思い止まる話であるのは、自殺者が十年連続で三万人を超え、生きにくくなっている時代なれば、最後にどこか突き抜けた呆れと失笑を誘うくらいの終わり方で朗々と歌いあげる場面によって、ある種の生命感を与えることに意味があるように感じた。

 男ふたりが自死にむしろ怖じ気づくようになれる過程のなかで最も大きく作用していたのは、おそらくは、誰かに言いたくてたまらないながら口にはできぬまま内側に押し止めていたであろう、己が想う女性の素晴らしさを誇る言葉であったように思う。誇る言葉を口にし、行為として自慢を行動化することが、男ふたりに死ぬ気を失せさせたような気がしてならない。いわゆる“自慢”という行為に、およそポジティヴな意味を見出したことが僕はなかったけれども、大正時代の岸田作品によって、自慢の効用を初めて強く認識させられたように感じ、新鮮な気分を味わった。

 学者が役者に読み聞かせ始めた許嫁からの手紙が途中から女声になったのがなかなかよくて、“きちんとした言葉の美しさ”の際立つ作品なればこそ、女性の言葉の美しさは、やはり女声で聞かせてもらわなくてはいけないと改めて思った。実に聡明で美しい言葉の並んだ手紙だった。聞かされた役者が思わず妬んでしまい、手紙の言葉には嘘があり、無理をしていると暴き立て、許嫁にそんな無理をさせて不幸を与えるべきでないのはもっともだと、先刻まで学者の自殺を引き留め、自分が先んじようとしていた態度を翻し、学者の自殺を煽り始める。その顛末に失笑を誘われつつ、それも無理からぬ話だと思えるような手紙だった。


ヤマさんのライブ備忘録」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室