Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan
no Live_bibouroku》07.23
vol.137
彼らほどのドラマティックな出会いと別れではないにしても、やむなさと裏腹の心残りに彩られた屈託を人生に抱えているのは、誰しもに覚えのあることなのだが、日中戦争が始まる前の昭和六年に同じ日の同じ回の『巴里の屋根の下』を銀座で観たあと出会った三人の戦中戦後の半世紀に渡る因縁の物語を観ていると、善し悪しで量ることのできない人の心の奥行きと人生の歳月が彫り込む陰影のもたらす味わいの深さに打たれるような気持ちになった。そのうえでは、「わたしの人生をダメにしたのは、わたし自身であって、あんたに謝ってもらう筋合いはない」と守山(小市慢太郎)に言い切るヒカル(キムラ緑子)の矜持を湛えた人物造形の巧みさが効いていて、若き日に阿片に溺れて身売り生活をしていたり、滝口(三上市朗)と再婚して後も、きちんとした夫との真っ当な生活に身を落ち着けることができずに自堕落を繰り返さずにはいられなかった中にも、滝口と守山が終生惹かれ続けたことに納得感の覚えられるヒカルの魅力が描き込まれており、キムラ緑子がよく演じていた気がする。 彼女の魅力は、ひと言でいえば、狡さと悪怯れのない颯爽感だったように思う。特高に転向させられながらも満映理事長の甘粕正彦(奥田達士)の誘いを断る硬骨ぶりを見せていた滝口や彼への信義と友情に些かのブレも来さなかった守山には、彼女に通じるところのある人物造形が施されつつ、昭和六年に滝口が見せた侠気の裏にあった事情や守山が料理屋の女将(勝平ともこ)を使ってヒカルに仕掛けた工作などに窺えるように、二人ともヒカルには及んでないことが示されていた。それゆえに、守山と滝口が共にヒカルに強く惹かれたことや、一見対照的に映る二人の男が留置場で過ごした一夜のうちに肝胆相照らして親友となったことに、納得感が備わったような気がする。甘粕の誘いを一旦断った滝口が翻意して満映に入る決意をする顛末の運びも巧く、ある種の挺身として気持ちよく納得できた。 ともあれ、こういった数奇な運命を辿った人間ドラマを描くと、得てして戦争や時代の悪を訴えるような作劇に走りがちに思うのだが、そうしていないところに惹かれた。戦争や時代は、あくまでドラマティックさを増幅する装置として働くに留めていたように思う。だからこそ、善し悪しで量ることのできない人の心の奥行きと人生の歳月が彫り込む陰影のもたらす味わいの深さに打たれるような気持ちを呼び起こしてくれたのだろう。なぜ滝口と上手くいかなかったかと問われたヒカルが「あの人といると、ついつい気取って演じてしまう自分がいて、疲れてしまうの。窮屈だったわ。」と答えた守山への告白は痛烈ながら、滝口への振る舞いも守山への告白も、狡さからの演技ではなかったろうと感じさせる人物造形に味わいがあった。そして、四十年の歳月を経て抱擁し合うときに、唇を重ねようとした守山を静かに押し止め、身は離さずに頭を垂れて守山の胸に押し当てたエンディングが素敵だった。男と女として余生を共にすること以上に、苦難の歳月を過ごしてきたことを分かち合える者同士として、残り少ない人生の伴侶を得られることの喜びがしみじみと伝わってくるとともに、滝口を最も敬愛し、守山と最も相性がよかったヒカルの翻弄された女心が偲ばれた。 それにしても、映画好きには何とも嬉しい作劇だった。いくつものクラシック映画のタイトルが出てくるだけでなく、ドラマ的な重なりを音楽とともに増幅してくれるばかりか、最後には弁士付き無声映画の風情まで演出してくれていた。楽しさも哀しさも喜びも余韻豊かな芝居だった点からは、ファンには思わぬサービスに映るかもしれない芝居後の音楽演奏は、劇団のチームワークのよさが醸し出されてはいたものの、マイクミキシングのバランスの悪さも手伝って、僕にとっては、少々余計なものだった。 |
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