Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan
no Live_bibouroku》09.17
vol.138
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'08. 9.17. ざっと粗筋を読んで、貴族というのは少しは他にやることがないのかというような思いと何とも愚かな者たちのお笑い種の物語にしか思えなかったものが、歌劇で鑑賞すると、筋立て自体に何一つの違いがないのに、奥行きがあって現代性の感じられる、味わい深い堂々たる悲劇として感銘を与えてくれる物語になっていて驚いた。いったい何故なんだろう。オペラマジックとしか言えない気がしている。 ♪風の中の〜羽のように〜いつも変わる〜女ごころ〜♪との歌で聞覚えのある『女心の歌』は、恋する女性の気まぐれに翻弄されている男の嘆きの歌だと思っていたから、よもや漁色家のマントヴァ公爵(マリウス・マネア)が、初めて本気になったとの想いをジルダ(ニコラ・プロクシュ)に抱きながらも、ちゃっかり想いを叶えてしまうとまたぞろ忽ち漁色家の本性が抑えられなくなってしまう場面で、女の心はコロコロ変るんだからと酒場で歌って自分に弁明してるような“言い訳ソング”だとは思いがけず、大いに意表を突かれた。いろんなところに、いろんことに感心や感慨を誘われ、大満足をしたのだが、歌劇らしく恋愛ものだろうと思っていたオペラがそうではなく、父娘ものだったところに想外の味わいがあった。 そもそも基本的にトリックスターが役どころであるはずの道化が主人公の物語であるというところに、王侯貴族の物語にはない現代性があったように思う。単に宮仕えであるばかりか、同僚もいない“道化という家中で蔑まれ嫌われる役目”によって何とか生活を営んでいることに大いに屈託を抱えている様子が早々にリゴレット(クレイグ・スミス)の歌で示されるのだが、かかる心境に共感を覚えるオヤジ族は現代のほうがむしろ多くなっている気がする。矜持を保ちにくい惨めなお役目を身すぎ世すぎとしているがゆえに、娘からも指摘される、妻を亡くし友の一人もいない孤独な境遇が、生きがいの全てをひとえに娘に向けてしまうことに切実感が生じてくるわけで、そのことが予め提示されたうえで聴かされるから、リゴレットとジルダの父娘の情愛の絆を歌いあげた第1幕第2場の場面に思いのほか心を動かされたのだという気がする。演出的な面で現代性を覚えたのが、ジルダの純情と際立たせる形で示される1幕1場の舞踏会と言うよりも乱痴気パーティの様相を呈していた感のある宮廷の様子やマントヴァ公爵にまとわりつく女性たちの肢体の使い方や見せ方に、様式性とは対極の生々しさを宿らせていた点だ。第2幕の冒頭でマントヴァ公爵がもはや他の女性には目もくれないほどにジルダへの思いを募らせていることを歌いあげている場面で、公爵の気を惹こうと彼の脚に手を這わせ撫でる女性の姿にしても、昔はこうは演じられなかったろうとの思いの湧く妖しさが率直に込められていた。 第2幕の最後で娘が父に明かした告白に添えられていた願いを、もしリゴレットが容れることができていれば、終幕の悲劇は起こらなかったのだが、復讐の不毛や恨みの無益を印象づける以上に、そうはできない悲劇性のほうに納得感が宿っていたのは、やはり1幕2場での歌の見事さゆえだったような気がする。復讐を企図する人間の愚かしさよりも、悲劇を予感させる運命の御し難さのほうが浮かび上がっていた。だからこそ、第3幕の旅籠の酒場の内と外で、公爵の漁色現場を目撃しつつ悲嘆にくれるジゼルと公爵に怒りを燃やすリゴレット、後ろめたさとの葛藤を覗かせつつ男の甲斐性に自身を駆り立てる感の窺えた公爵、手練れの玄人ワザで公爵をたらし込もうとしつつも思わず魅了されてしまいそうになる女心の揺れと葛藤を覗かせていた非情なはずの悪女マッダレーナ(カタリーナ・ブラディック)の四重唱が、驚くほどのスリリングさと緊迫感を醸し出していたのだろう。 終演後にそのことを音楽に造詣のある友人に伝えると、この四重唱はこの作品のなかでも最も評価の高い有名な場面なのだと教えられた。四年前に『コシ・ファン・トゥッテ』を鑑賞した際に「許婚者がしばらく不在になってたちまち口説かれることに憤ったり困惑したりしつつも「なんかヘン」と心中揺れ動く女心の浮き立ちに喜んだり抑えたりして動揺しているさまは、歌曲で表現するからこそ同時並列で交互に言葉にして繰り返すことが効果的なのであって、台詞劇では絶対に成立しない手法ながら、実に揺らめきというものを鮮やかに表現している。字幕で観ていてもいい加減可笑しいのだが、これが音声で言葉の響きとして聞き分けられたら、もう可笑しくて仕方がないだろう。きっとこのオペラの醍醐味は、ここのところにあるはずだ」と備忘録に綴ったこととは異なるバージョンながら、このスリリングさと緊迫感の表現の仕方は、やはり“台詞劇では絶対に成立しない手法”という点で、全く同じものだと思った。そして、何とも脳天気な意味合いで使われている『女心の歌』の歌声を遠くに聞きつけることでリゴレットが悲劇的事実を突きつけられることになる展開の“皮肉の効いた酷な情けなさ”に痺れるとともに、リゴレットが瀕死の娘ジルダと交わす歌声の悲痛さに打たれた。 この作品の持つ想外の現代性と古典的な劇性の同居に、一体いつ頃生まれた作品なのかと思ったら、江戸時代末期の頃合いのようだ。150年の時の流れに淘汰された有名作というのは、やはりそれ相応の力と値打ちのある作品だと改めて思い知った気がする。粗筋を前もって読んで侮っていたことが却ってオペラという表現手法の力を印象づけてくれたような気がしている。終演後、直ちに帰るのが惜しくて連れの友人と飲みに寄らずにいられなかったのだが、リゴレットの娘ジルダへの思いをかように汲める歳にお互いなっていることに苦笑しつつの楽しい酒席だった。 |
「ヤマさんのライブ備忘録」の扉へ
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