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no Live_bibouroku》09.19
vol.139
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'08. 9.19. 音楽学校の初老の教授マシュカン(加藤健一)とスランプに陥った青年ピアニスト(畠中洋)の二人しか登場しない芝居だけれど、とても味わい深い、奥行きのある作品だった。加藤健一事務所の芝居は、これまでにもいくつか観てきているけれど、常に満足度が高く、僕との相性がとてもいい。台本選びに長けているし、丁寧に作りこんできていることがいつも窺える。今回も、声楽家とピアニストという音楽家二人の物語であることに不自然さを感じさせない歌と音楽だった。あのステージに置いたピアノ本体から音が出てきているように聴こえる仕掛けは、どうなっているんだろう。まさか畠中洋自身が弾いていたとは思えないのだが、いくらお芝居とは言え、ここのところが自然に感じられるかどうかは観劇にも感激にも大きく作用してくるところだから、とても感心させられた。 手元にある「関東版ぴあ」によれば、'03年'06年に続く再演のようだが、先に本多劇場での公演を済ませてからの高知公演で、このあと10月には紀伊國屋サザンシアターでの公演も控えているようだ。東京での料金は共に5000円だから、先頃値上がりしたと言っても会費2ヶ月分4500円のほうが安いわけで、交通費を考えると、こんなありがたい話はないと改めて思う。 国連のワルトハイム元事務総長がオーストリア大統領になったのは、僕が二十代の終わり頃だったから、二十年くらい前のことだ。戦後四十年ということになるので、'43'44'45年を十代で過ごしたマシュカン教授は五十代を迎えているわけで、今年五十歳の僕より少し年上という勘定になる。僕は彼と違って「指導」そのものを職にはしていないけれども、教えるという行為におけるテクニックと心構えのような部分で示唆に富むところがたくさんあって、思うところがたくさんあった。最も強く印象づけられたのは、いかなる領域であれ、指導育成の本質は“人間教育”に他ならないことを描いていたように思われる部分だ。 音楽演奏という一見とても技術的な領域のように思われがちな分野でさえ、教えるということの本質はそこにあり、よき指導者に必要なのは“人間味を以て伝え得る指導力”であって、指導技術そのものについての実技レベルや人格的な高い徳性、人間的完成度などでは決してないことがよく描かれていた。ピアニストへの指導なのに、マシュカン教授は、ピアノは下手だし、教え子相手に利鞘を乗せた菓子パン商売をしている始末だし、たとえそれがやむなき事情に起因するにしても、自殺未遂を重ねる情緒不安を持病と抱えている人物なのだが、スティーブンにとってはまさに最良の師となったことに納得と感銘の覚えられる人物造形がされていた。音楽についても、人生についても、含蓄のある言葉が豊かに込められていて、両者の深みを学ぶのはスティーブン以上に観客だったように思う。そして、よき指導が行われた際には、必ず指導者自身もその指導過程のなかで大きな学びと成長を得るものであることは、指導者が五十代の域にあってもなお変わらぬ真実であり、それこそがまた人生の深みであることも示していたような気がする。 そういった点で、作者のジョン・マランスに敬意を表したくなるような作品だったが、とりわけマシュカン教授に顕著な“ユダヤ人の葛藤”にここまで踏み込んで書く勇気は、作者自身がユダヤ人でなければ叶わない気がしたが、どうなんだろう。虐殺を免れた被害者ながら、自分だけ生き延びたことに負い目と自責の重荷を抱く心境が描かれている点では、被爆体験者を綴った井上ひさし作の『父と暮せば』を想起せずにいられないところがあったようにも思う。そこに焦点を当てれば、この作品は、マシュカン教授の収容所時代に何があったか、彼の自責が『父と暮せば』の美津江と同じ性質のものなのか或いは実際に背信行為に手を染めていたのかを避けている面があったと言えなくもない気がするけれども、ワルトハイムのナチスでの将校歴のことを持ち出しつつもそうしてあることが、作品の価値を減じるものでは決してないように思った。和洋の違いがあるだけで、両作ともに、笑いを交えつつ“人間味を以て伝え得る力”の大切さと“言葉の力”というものについて改めて気づきを与えてくれるところに最も力点が織り込められている作品なわけで、ともに豊かで堂々たる名作だと強い感銘を受けた。 |
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